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鎖国を批判した蘭学者・高野長英

今日10月30日は、「夢物語」を著し、江戸幕府批判の罪で捕らえられるも脱獄、自ら顔を焼いて人相を変えて逃亡していた蘭学者高野長英(たかの ちょうえい)が、1850年幕府の役人に見つかって自殺をはかった日です。

開国論者として有名な高野長英の一生は、時代を切り開こうとする者が、どんな苦しい目に会い、それに耐えて生き抜かなければならなかったかを教えてくれます。

長英は1804年、陸奥国(岩手県)水沢に生まれました。7歳で父を失い、母の実家にひきとられたのが蘭学をはじめるきっかけでした。養父の高野氏信が杉田玄白の弟子で、長英にオランダ語の手ほどきをしてくれたからです。やがて16歳になると長英は医学をおさめようと江戸に出ました。はじめ玄白の養子杉田伯元につき、さらに伯元のすすめでオランダ内科医学で名高い吉田長叔の弟子になりました。長英の勉強ぶりはたいへんなもので、まもなくオランダ語の辞典の翻訳を手がけるほどの進歩をとげました。

ちょうどそのころ、長崎でオランダ医者シーボルトが「鳴滝塾」を開き、日本の産業や文化を研究するかたわら蘭学をこころざす青年を集めて教えはじめました。これを知った長英は、さっそく長崎におもむきました。19歳のときです。

オランダ医学はもちろん、長英はシーボルトの日本研究を助けて資料をまとめたり各地の実地調査をする仕事にも人一倍努力しました。そのなかで長英の社会を見る目はとぎすまされ、自分一人の出世よりも、学んだことを少しでもおおくの人びとの役に立てようと考えるようになりました。

1828年、長崎留学をおえて江戸に帰ろうとしたやさき、シーボルト事件がおきました。シーボルトが日本から持ち帰ろうとした品物のなかに持ち出し禁止の日本地図があったからです。役人の追及は塾生にも及びました。長英は災いをさけ、各地を転てんとしたあげく、1830年10月江戸に帰って町医者になりました。しかし、おだやかな日びは長くはつづきませんでした。

1833年、天保の大ききんがおこると渡辺崋山らとともに長崎での学友小関三英の呼びかけに応じて尚歯会に加わり、飢えに苦しむ人びとを助けるための対策をねって『ニ物考』という本を書きました。この本の中で長英は幕府のやり方を批判したので目をつけられることになったのです。さらに1837年モリソン号を砲撃して退去させた幕府の鎖国政策の誤りを『夢物語』に書いて明らかにしたため、『慎機論』を書いた崋山とともに捕えられてしまいました。6年後、牢が火事になったのにまぎれて逃げ出し、顔を硝酸で焼いて人相を変えてさすらいましたが、ついに、追っ手にとり囲まれて自殺しました。長英は自分の正しいと思ったことは、決して曲げない人でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「10月30日にあった主なできごと」

1890年 教育勅語発布…この日「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、翌日全国の学校へ配布。以来、1945年の敗戦まで55年もの間、皇室中心の国家的教育が進められました。

1938年 火星人来襲パニック…アメリカのラジオドラマで、オーソン・ウェルズ演出による「宇宙戦争」(原作H・Gウェルズ)を放送、演出として「火星人がニュージャージー州に侵入」の臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いした人々が大パニックをおこして町から逃げ出す人、発狂する人まで現れました。

2000年 高橋尚子に国民栄誉賞…8月に行なわれたシドニーオリンピックの女子マラソンで優勝し、陸上競技で日本に64年ぶりの金メダルをもたらした高橋尚子に国民栄誉賞が授与されました。  

投稿日:2008年10月30日(木) 09:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)