今日10月29日は、開国論を唱え「安政の大獄」を引き起こして尊攘派を弾圧、桜田門外の変で水戸浪士らに殺害された江戸末期の大老井伊直弼(いい なおすけ)が、1815年に生まれた日です。
井伊直弼は、江戸時代の末期、対外的には200年来つづいていた鎖国体制がゆさぶられ、また国内的にも幕藩体制がゆるぎはじめたむずかしい時期に、幕府の最高責任者である大老として活躍した人です。歴史の曲がりかどに生きた直弼の一生は、個人の運命と時代の流れとのかかわり合いについて、さまざまなことを考えさせてくれます。
1815年10月、直弼は近江(滋賀県)の11代彦根藩主、井伊直中の14番目の男の子として生まれました。4歳で母を失い、16歳で父を亡くすと、直弼は長兄の12代藩主直亮(なおあき)から城外に小さな屋敷を与えられ、命じられるままにそこに移り住みました。このとき直弼は自らの住みかを埋木舎(うもれぎのや)と名づけ、一生ここに埋もれて過ごす覚悟をきめ、出世の望みも捨てました。ただ若いエネルギーと知識欲はおさえることができません。茶道や国学の研究に、あるいは禅や居合の修行に、直弼は全力を注ぎました。
ところが直弼が31歳のとき、藩主直亮の養子直元が病死してしまい、かわりに直弼が養子に選ばれることになりました。さらに4年ご、藩主直亮も亡くなり、思いがけなく35歳にして直弼は13代彦根藩主となったのです。知識や体力はもちろんですが直弼がなみの藩主とちがうのは、埋木舎の時代を通して私利私欲にとらわれない冷静な判断力を身につけていたことです。まもなく直弼は名君として人びとの信頼を集めました。
1853年、アメリカ使節ペリーが浦賀(神奈川県)にあらわれ幕府に開国をせまる事件がおきました。産業革命をなしとげた欧米の列強による海外市場の開拓の波が、ついに日本にも打ち寄せてきたのです。天下は開国か攘夷かで大混乱となりました。翌年ペリーが再来し、武力をちらつかせながら江戸湾深く乗り入れると幕府はやむなく和親条約を結びましたが、アメリカの本当のねらいは通商条約です。困りはてた幕府は名君のほまれ高い直弼を大老の位につけてことに当たらせることにしました。直弼はアメリカと戦っても勝ち目のないこと、さらにヨーロッパ列強につけ入られるすきを与えないためには通商条約もやむなしとの断をくだし、1858年、条約は調印されました。怒ったのは水戸藩の徳川斉昭をはじめとする攘夷論者の人たちです。
ここにいたって直弼は力による弾圧で難局を切り抜けようとして「安政の大獄」を引きおこしてしまいました。これを恨んだ水戸浪士らによって、1860年3月3日直弼は江戸城の桜田門外で殺され、直弼を失った幕府も衰亡への道を急ぐことになりました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 30巻「渡辺崋山・勝海舟・西郷隆盛」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「10月29日にあった主なできごと」
1922年 トルコ共和国宣言…オスマン帝国を倒したトルコは、この日共和国の成立を宣言。初代大統領にムスターファ・ケマルを選びました。アタチュルク(トルコの父)として、現在に至るまで、トルコ国民に深い敬愛を受けつづけています。
1929年 悲劇の火曜日…1920年代、永遠に続くと思われていたアメリカの繁栄に大ブレーキがかかりました。5日前(暗黒の木曜日)に1日1300万株が売られて株が大暴落したため、ニューヨークの取引の中心であるウォール街は、不安にかられた投機家でごったがえし、大損して自殺する人まであらわれました。さらにこの日1630万株も売られ、ウォール街最悪の日となって、午後には株式取引所の大扉を閉じました。株価はその後も売られ続け、世界中をまきこむ大恐慌となっていったのです。
1945年 宝くじ発売…政府はこの日、戦後復興の資金集めのために、第1回宝くじの販売を開始しました。1枚10円、1等賞が10万円で副賞に木綿の布が2反、はずれ券4枚でたばこ10本がもらえました。評判が良かったために、翌年には賞金が100万円となりました。戦後数年間の宝くじには、敗戦後の物資不足を反映して、革靴、地下足袋、人口甘味料のズルチンといった景品がつき、1948年1等の副賞には木造住宅がつきました。