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後期印象派の代表画家・セザンヌ

今日10月22日は、ゴッホ、ゴーガンと並ぶ後期印象派の巨匠、20世紀絵画の祖といわれる画家セザンヌが、1906年に亡くなった日です。

19世紀の終わりに、印象主義とよばれた美術運動が、ヨーロッパで盛んになりました。印象派の絵というのは、目に見えたとおりに写真のようにかくのではなく、画家の心にどう感じたかということを、自分自身の感じたままに表現したものです。

1839年に南フランスの小さな町で生まれたポール・セザンヌは、この印象派の技術を身につけ、ゴッホやゴーガンとともに後期印象派の天才といわれています。

しかし、セザンヌに天才ということばが与えられたのは、ようやく晩年になってからのことです。67歳のとき、絵をかきながらたおれてしまうまでの生涯は、決して楽しいものではありませんでした。

父は銀行を経営するほどの金持ちでした。めぐまれた家に生まれたセザンヌは、小学生のころから絵がすきでした。また中学校では、のちに大文学者となったエミール・ゾラとしたしくなり、文学にも夢中になりました。

しかし、セザンヌは、父の希望で法律の大学にすすまなくてはなりませんでした。でも、画家になりたい気持ちがしだいに強くなり、ゾラにはげまされて、ついにパリにとびだしました。22歳のときです。

ところが、内気なセザンヌは、パリの芸術家たちとはしたしくなれず、ルーブル美術館に通って、絵を見学する毎日でした。そして2年ごに美術学校の入学試験をうけましたが、合格しませんでした。

セザンヌは、パリの町に小さなアトリエを見つけて、ひとりで絵をかきはじめました。その絵は、絵の具を厚くぬった、だいたんで、はげしいものでした。それから何年ものあいだ、いくども展覧会に出品しましたが、落選するばかりです。ものの構造をしっかりと見て、自分の感じたままに表現するというセザンヌの絵は、だれからも理解されなかったのです。

50歳をすぎたころから、故郷にひきこもったセザンヌは、一日じゅう絵のことだけを考えて暮らしました。そして有名な「自然はすべて、球形、円すい形、円筒形としてとりあつかわなければならない」という結論にたっしました。

やっと画商やゴーガンやルノアールが、セザンヌの絵の新しい意味に気づきはじめ、やがて、セザンヌの名が外国にまで知られるようになりました。

『首つりの家』『散歩』『水浴』などの傑作は、現代の美術に大きな影響を与えました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)11巻「ナイチンゲール・シュリーマン・パスツール」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。なお、本ブログ(08年1月31日号)では「セザンヌの自画像」について綴っています。

「10月22日にあった主なできごと」

794年 平安京に遷都…桓武天皇はこれまでの長岡京から、この日平安京に都を移しました。南北を38町に区切り、39の大路・小路を東西に通して1条から9条に分けた京の都は、明治維新まで1100年近くも続きました。

1933年 早慶戦りんご事件…この日神宮球場で早慶戦が行なわれ、早稲田の応援団席から投げられたりんごを、慶応の三塁手水原茂(のち巨人軍監督)が投げかえして紛争がおこり、早慶戦の中止にまで発展しました。

1962年 キューバ危機…ソビエトがキューバに攻撃用ミサイル基地を建設中との情報を入手したアメリカのケネディ大統領は、この日全米に「海上封鎖を予告する」とテレビで演説、ソビエトのフルシチョフ首相に対し「封鎖を破るものは、ソ連船でも撃沈する」と警告を発しました。ソビエトはこれをアメリカの海賊行為と非難したため、核戦争の始まりかと世界中を震撼させました。しかし28日、ソビエトはミサイル基地の撤去を発表、危機は回避されました。

投稿日:2008年10月22日(水) 09:17

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)