今日10月21日は、長編小説「暗夜行路」などを著し、武者小路実篤とともに「白樺派」を代表する作家 志賀直哉(しが なおや)が、1971年に亡くなった日です。
1910年(明治43年)、学習院高等科出身の文学グループを中心にして『白樺』という文芸雑誌が創刊されました。その中心になったのが志賀直哉と武者小路実篤です。ふたりともまだ東京帝国大学の学生でした。どちらも、名門の家がらで経済的には恵まれていましたが、直哉は12歳のときに母を失い、実篤は、わずか3歳で父と死別しています。
直哉は、新しい母がとても気に入り、生母の死の悲しみからすぐに立ち直ることができました。しかし、10代のおわりころに、いくつかのできごとが重なって父と激しく衝突し、対立は16年もつづきました。父とのあいだに和平がもどったとき、直哉は34歳になっていました。1917年に発表された『和解』という小説にそのようすがくわしく描かれています。
『小僧の神様』をはじめ『城の崎にて』『灰色の月』など、志賀直哉は短編をおおく書いた作家ですが『暗夜行路』は、16年という歳月をかけて仕上げた長編の自伝的小説です。作者自身 「生命を打ちこんで書いた」 といっている作品だけに、大正、昭和を通じておおくの人びとに強い影響を与えました。およその内容は、次の通りです。
(祖父と母のあいだに生まれた時任謙作は、青年期になって、初めて出生の秘密を知り、放蕩のうちに悩みます。そして、彷徨の末にであった妻は、やがていとこと過ちを犯します。ふたたび謙作は悩んだ末に妻を許しますが、心の中にはわだかまりが残り、彼はひとり鳥取の大山へ登ります。ここではじめて謙作は、身も心も大自然と一体になり、真実の愛の世界をさぐりあてるのでした)
武者小路実篤は直哉よりふたつ年下ですが、直哉が学習院の中等科で2度落第したため同級になり、しだいに親交を深めていきました。
実篤は若いときにトルストイに夢中になり、かたかなのトという文字を見ただけで興奮してしまうというほれこみようでした。「からだを使って労働するのは人間の義務である」というトルストイの主張は、食べるに困らない子しゃくの家に生まれた実篤に大きなショックを与えました。みんながみんなのためにはたらくというトルストイの思想を旗じるしにして、実篤は、36歳のときに、理想郷「新しき村」を創設します。
宮崎県の山中に同志が集まり、農作業や芸術創造に打ちこむ生活は、当時の人びとの注目を集めました。ここで『幸福者』『友情』などの代表作が世に出ました。しかし、はじめに予測したほど順調な進展をみせず、実篤は7年あまりの努力ののち、同志を九州に残したまま村を離れ、いったん奈良に落ちついて文筆生活に専念します。村はのちに埼玉県に移されました。
求道的ともいえる精神で幸福を追いつづける姿勢は、実篤も直哉も同じでした。
自然主義文学がいきづまりつつあるときに、直哉と実篤は、文壇の天窓を開け放ってさわやかな空気を入れたといわれています。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」のうちの1篇「志賀直哉と武者小路実篤」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「10月21日にあった主なできごと」
1520年 マゼラン海峡発見…スペイン王の協力を得て、西回りで東洋への航路をめざしたポルトガルの探検家マゼランは、出発からすでに1年が経過していました。そして、この日南アメリカ大陸の南端に海峡(マゼラン海峡)を発見、7日後の28日に南太平洋に到達しました。マゼランは、翌年3月にフィリピンで原住民の襲撃にあって死亡。9月に乗組員が世界一周を終えてスペインに到着したときは、5隻の船は1隻に、256名の乗組員はわずか18名になっていました。
1805年 トラファルガーの海戦…スペインのトラファルガー岬の沖で、ネルソン率いるイギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊に勝利しました。しかし、旗艦ビクトリア号で指揮していたネルソンは、狙撃されて死亡。
1857年 ハリスが将軍に謁見…アメリカ駐日総領事ハリスは、大統領ピアースの国書をたずさえ、江戸城で13代将軍徳川家定に謁見。イギリスに侵略されるより、アメリカと修好通商条約を結ぶよう老中らを説得しました。
1882年 東京専門学校開校…4月に立憲改進党を結成して総理となった大隈重信は、自己の別荘地早稲田に85人の学生を擁する東京専門学校(1902年に早稲田大学と改称)を設立。学問の独立による自由精神の育成をめざすことになりました。