今日10月16日は、フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、1793年に38歳の若さで断頭台に消えた日です。
1775年にオーストリアの女王の娘として生まれたアントアネットは、14歳で、フランスのルイ王子と結婚しました。愛情でむすばれたのではありません。フランスとオーストリアが手をむすぶために、ぎせいにされたのです。
4年ののち、王子は国王ルイ16世となり、アントアネットは王妃になりました。王を愛することができないアントアネットは、黄金のベルサイユの宮殿で、ぜいたくでわがままな生活だけを楽しむようになってしまいました。
ところが、1789年10月、アントアネットのはなやかな生活は、とつぜんうちこわされてしまいました。
「国の政治を、王のかってにさせるな。貧しい人びとを虫けらのようにあつかう貴族をたおせ、われわれにパンをよこせ」
人間の自由と平等をさけんで立ちあがった人びとが、ベルサイユ宮殿へおしかけました。フランス革命がはげしさを増し、貴族とむすびついていたルイ16世とアントアネットは、民衆の手でパリに移されてしまったのです。
いつも市民に見はられている生活は息苦しくてしかたがありません。それに、もういちどぜいたくな生活をとりもどしたいアントアネットは、兄のオーストリア皇帝にたすけてもらうことを考え、ある夜、王といっしょに、召使いにすがたをかえて宮殿から逃げだしました。しかし、すぐに見つかり、こんどは罪人のようにして、パリへつれもどされました。
オーストリアは王妃を救い出そうと、軍隊をむけてきました。
「みんな戦え、祖国フランスを守るのだ」
人びとは『ラ・マルセイエーズ』をうたってふるいたちました。ところが、このとき国民が、まず初めにいのちをうばったのは、オーストリアとこっそり手をむすんでいた王でした。
1793年1月、ルイ16世は、市民のまえでギロチン(断頭台)にかけられました。そして、それから10か月ののちにアントアネットも、新しく権力をにぎった政治家たちに、死刑にされてしまいました。ナポレオンが軍隊の力で争いをおさえ、1799年にフランス革命を終わらせるよりも、6年もまえのことでした。
アントアネットは、王妃でありながら、自分のことしか考えない、心のせまい人間でした。しかし、歴史の流れにふみつぶされたかわいそうな王妃として、フランス革命とともに、いつまでも語りつがれるにちがいありません。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 8巻「モーツァルト・ナポレオン・ベートーベン」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「10月16日にあった主なできごと」
1012年 藤原道長絶頂期の歌を詠む…「この世をば わが世とぞ思ふ 望月のかけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女を一条天皇、次女を三条天皇の皇后とし、そして三女を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。
1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュールンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュールンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。ゲーリングは処刑される寸前に拘置所で服毒自殺。