今日10月15日は、16世紀神聖ローマ帝国の支配下にあったベルギーの解剖学者で、現代人体解剖の創始者といわれるベサリウスが、1564年に亡くなった日です。
暗黒時代がつづいたヨーロッパの社会も、16世紀にはいると、ドイツのルターやフランスのカルバンたちが宗教改革をおこして、教会の権力をゆさぶり、学問の世界も新しい学説が古い学説をくつがえして、ようやく明るいきざしがみえはじめました。
なかでも、1543年に出版された2さつの本は、新しい時代へみちびく手引きとなりました。コペルニクスの『天球の回転について』と、ベサリウスの『人体の構造について』という本です。コペルニクスは、出版と同時にこの世を去りましたが、ベサリウスのほうは、まだ若いときの出版でしたから、世の非難をあびて、のちのち苦労をすることになりました。
ベサリウスは、1514年ベルギーのブリュッセルで生まれました。小さいころから研究熱心で、ネズミやネコを解剖して内臓をしらべたりしました。医学を勉強するために、19歳のとき、パリの大学にはいりました。しかし、先生の講義は、古代ギリシアのガレヌスの説をそのままつたえるだけのもので、ベサリウスには、ものたりませんでした。自分で動物を解剖したり、人体や骨を観察したりして、研究をつづけていきました。
1537年、23歳のベサリウスは、北イタリアのパドバ大学から医学教授としてむかえられました。ベサリウスは解剖学の研究をすすめながら、その新しい知識を学生たちに教えました。教室で人体を解剖してみせ、あやまった古い学説をひとつひとつ正していくベサリウスの講義は、学生たちを感動させ、ほかの医学者たちをおどろかせました。
ベサリウスが『人体の構造について』という研究論文を発表したのは、教授時代の1543年です。近代医学の基礎ともなった、すぐれた論文でしたが、当時の教会は、ベサリウスを危険思想のもち主ときめつけました。学会も、なかまの教授たちも、こぞってベサリウスを非難しました。
大学にいられなくなったベサリウスは、やがてスペイン国王の侍医となり、マドリードにうつり住みました。そして、外科医として信頼されるようになりました。あるとき、貴族の死体を解剖しました。ところが、その人体はまだ心臓がうごいてた、といううわさが町にながれたのです。ベサリウスは、生きた人間を解剖したうたがいで、宗教裁判にかけられました。
「聖都エルサレムにいってざんげせよ」という宣告がくだされました。ベサリウスは、エルサレムまでいきました。しかし、その帰りみち、近代医学をきりひらいた「解剖学の父」は、小さな島でさみしく亡くなりました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 5巻「ミケランジェロ・レオナルドダビンチ・ガリレオ」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「10月15日にあった主なできごと」
1582年 グレゴリオ暦開始…4年ごとに閏年をおく、ユリウス暦は1500年以上も使われてきましたが、すでに10日間もの遅れが出ていました。そのため教皇グレゴリウス13世は、以後100で割れても400で割れない年については閏年としないこと、この年の10月4日の翌日は10月15日とすることを決めました。これが今世界のほとんどの国で使用されているグレゴリオ暦で、これに変えなかったイギリスは1752年まで、ロシアは1918年までユリウス暦を使用したため、日付にずれが生じています。
1867年 大政奉還…1月に即位した明治天皇は、前日江戸幕府第15代将軍徳川慶喜から申し出のあった統治権の返上(大政奉還)を受け入れ、江戸幕府265年の歴史が終わりをつげました。
1929年 官吏の給与1割カット発表…政府はこの日、官吏の給与を1割カットすると突然発表しました。大蔵大臣井上準之助は、長引く不況を乗り越えるには、国民が節約につとめることによって物価を下げ、金輸出解禁にふみこむことが必要と主張。それには政府が模範を示さなくてはと給与カットを発表しましたが、反対にあって1週間後に撤回。しかし、昭和不況が深刻化した2年後の6月に実施されることになりました。
1949年 米プロ野球チームと対戦…来日していたアメリカプロ野球3Aチーム「サンフランシスコ・シールズ」と巨人軍がこの日に対戦。結果は13対4で巨人軍の完敗に終わりました。