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狩野派の代表画家・狩野探幽

今日10月7日は、400年も続いた日本画を代表する狩野派の、江戸幕府代々の御用絵師として栄える基礎を築いた狩野探幽(かのう たんゆう)が、1674年に亡くなった日です。

15世紀の室町時代の中ごろから19世紀の明治時代の初めまで、およそ400年にわたってつづいた日本画に、狩野派とよばれたものがありました。狩野正信という人が、中国から伝わってきた、墨でえがく漢画をもとにしておこした日本画です。

1602年に京都で生まれた狩野探幽は、その狩野派の、江戸時代の初めのころの画家です。2歳になったばかりのころから、泣きだした探幽に絵筆をにぎらせると、すぐに笑ったと伝えられるほど、早くから絵の天才とさわがれました。

12歳のとき、将軍徳川秀忠の前で、いまにも目をさましてむっくりと起きあがりそうな眠りねこの絵をかいて、将軍をおどろかせました。また、14歳で、江戸城内の天井にまるで生きているような龍をえがいて、幕府の武士たちを、あっといわせ、つぎの年には、幕府の仕事をする御用絵師にとりたてられました。そして、まだわずか15歳というのに、江戸の鍛冶橋に大きな屋敷もあたえられ、ふたりの弟と仲よくしながら、江戸と上方(関西)のあいだを盛んに往復して、活躍するようになりました。

探幽が、とくにうちこんだのは、江戸城、二条城、大坂城、名古屋城、京都御所、日光東照宮、京都南禅寺などの障壁画でした。大きなへやの壁、ふすま、板戸、それに、びょうぶや、つい立てを、松、竹、花、鳥、虎などで、みごとに飾りあげていったのです。狩野派がえがいたものでなければ日本画ではない、といわれるまでになり、貴族や大名たちも屋敷を造りかえては、頭をさげて探幽をむかえました。

障壁画のほか、徳川家康の一生をえがいた『東照宮縁起絵巻』などの絵巻物にもうでをふるい、おしもおされもせぬ大家になった探幽は、34歳のときに髪をそって出家しました。それまでのほんとうの名は守信といい、探幽と名のるようになったのは、このときからです。

探幽は、偉大な画家の地位をきずき、おおくの弟子をかかえ、大名をしのぐほどの金持ちにもなりました。しかし、芸術家としての探幽は、けっして、おごりたかぶることはありませんでした。年をとってからも、外へでるときは紙をふところへ入れ、目についたものを写生して、いつも学ぶことを忘れなかったということです。

60歳のとき朝廷から法印という高い僧の位をさずけられた探幽は、それから12年ののち亡くなりました。そして、狩野派の日本画は、弟や弟子たちに大きくひきつがれていきました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)25巻「徳川家康・松尾芭蕉・近松門左衛門」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「10月7日にあった主なできごと」

1571年 レパントの海戦…ギリシアのコリント湾口の入口レパント沖で、オスマン帝国と海軍と教皇・スペイン・ヴェネツィア連合海軍(ヨーロッパ連合軍)との間で海戦がおこりました。オスマントルコ軍はヨーロッパ連合軍に大敗し、スレイマン1世没後オスマン帝国弱体化のきっかけになった大事件でした。

1859年 橋本左内ら処刑される(安政の大獄)…江戸幕府の大老井伊直弼が加えた大弾圧「安政の大獄」で、越前藩主松平春嶽を補佐した橋本左内や、儒学者の頼三樹三郎(頼山陽3男)らが処刑されました。

1949年 ドイツ民主共和国(東ドイツ)成立…西ドイツ成立後1か月もたたないこの日、東ドイツが誕生、ソ連の助けを借りて、社会主義国家として第1歩をふみだしました。そして、41年後の1990年10月3日統一を回復。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連の戦勝4か国は、ドイツに対してもっていたさまざまな権利を10月3日以降放棄して、統一ドイツは完全な主権をもった国家として国際社会に復帰しました。

投稿日:2008年10月07日(火) 09:00

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コメント (1)

坂口 一夫:

初めまして、坂口と申しあげあす

 狩野一派で狩野梅泉と言いう、花や鳥を描いた画家で

 す。絵は昔の巻き物風です。詳しく知りたいので、

 是非とも、御連絡ください。宜しくお願いします  
 

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)