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関ヶ原の戦いに敗れた武将・石田三成

今日10月1日は、豊臣秀吉の家臣で、秀吉の死後徳川家康と覇権を争い、関ヶ原の戦いに敗れた石田三成(みつなり)が、1600年に亡くなった日です。

大きな茶わんで、3ばいめの茶をゆっくり飲み終えた豊臣秀吉は、たいへん満足そうに言いました。

「なかなかの手並みじゃ。それぞれに茶も違ったようじゃが」

このころ、すっかり茶の湯にこっていた秀吉は、自信をもっていいました。ところが茶をさしだした小僧は、きっぱりと答えました。

「お言葉ですが、ただいまのお茶は、同じものでございます」

小僧は、はじめの1ぱいは、うんとぬるく量はおおめに、2はいめは少し熱く量はひかえめに、そして3ばいめは、うんと熱くして量はおもいきってへらし、秀吉の舌が熱さになれてくるにしたがい、茶を楽しめるように心をくばったのです。

秀吉は、面目を失いました。しかし席を立つとき、小僧に必ず城にたずねてくるように申しつけました。

近江国(滋賀県)の長浜城主であった秀吉が、タカ狩りでのどがかわき、ふと見つけた山寺で、茶を望んだときの話です。

この小僧こそ、のちの石田三成です。そのころ佐吉といった小僧は、この3ばいの茶の知恵でとりたてられ、生まれつきのかしこさから、秀吉にかわいがられるようになりました。

1585年、秀吉が関白になると、三成は、まだ25歳の若さで、前田玄以、増田長盛らの重臣たちにまじって五奉行のひとりになりました。そして、2年ご、秀吉が全国を統一するために九州で戦ったときには、食糧輸送の大役を果たし、さらに戦いのあとは、荒れた博多の町をたてなおすことなどに力をつくしました。

秀吉が進めた検地でも中心になってはたらき、朝鮮出兵のときにも頭脳をいかして活躍しました。しかし、命をかけて戦う武将たちからは、あまりよく思われていませんでした。ただ強いだけではなく、才知をはたらかせる武将だったからです。35歳で近江佐和山(滋賀県彦根市)の城主になったときは、その才知で、領民のためのすすんだ民政をおこないました。

1598年に秀吉が亡くなると、三成は、勢力をのばしてきた徳川家康と、急速に仲が悪くなりました。そして2年後、ついに家康の策略にかかって美濃(岐阜県)に兵をあげました。天下分け目の関ヶ原の戦いです。いつになっても勝敗がつかないかと思われるほどの、激しい戦いでした。

しかし、三成は敗れました。小早川秀秋らに裏切られたからです。捕えられた三成は、首をはねられてしまいました。豊臣家に最後まで忠誠をつくした、信義にあつい武将でした。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 24巻「武田信玄・織田信長・豊臣秀吉」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「10月1日にあった主なできごと」

1948年 赤い羽根募金…募金をすると赤い羽根がもらえることから「赤い羽根」とよばれている共同募金。毎年10月1日から12月31日までの間、主に各市町村の共同募金支分会を経由して自治会や学校、企業で募金を募り、社会福祉に役立たれています。

1949年 中華人民共和国成立…第2次世界大戦中、共産党の毛沢東は国民党の蒋介石と力を合わせて、日本との戦争に勝ちました。ところが、蒋介石はアメリカと組んで共産党をしりぞけようとしたため、3年にわたる内戦がはじまりました。その結果、蒋介石は台湾においやられ、この日毛沢東を主席とする新しい中国(中華人民共和国)が生まれました。中国の人たちはこの輝かしい日を「国慶節」(建国記念日)と決めて、毎年にぎやかなお祭りが行なわれます。

1964年 東海道新幹線開業…10日にはじまる「東京オリンピック」に間に合わせるために、この日開業。それまで東京─大阪間は特急で6時間50分かかっていた時間を3時間も短縮しました。当時は東京・新横浜・小田原・熱海・静岡・浜松・豊橋・名古屋・岐阜羽島・米原・京都・新大阪の12駅。開業初日の大阪─東京間、乗客がビュッフェ車にあった速度計に注目したため、運転士は張り切りすぎて、直線区間では最高時速210kmで連続運転しました。そのため、新横浜駅を予定より5分も早く通過してしまって、終点に着くころには山手線に抜かされてしまうほど速度を落とさなくてはならなかったというエピソードが残されています。

投稿日:2008年10月01日(水) 09:05

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コメント (1)

zuka:

はじめてコメントします。
石田三成が秀吉に取り立てられた話は聞いたことがありました。でも、秀吉が面目を失ったやりとりは知りませんでした。
とても面白い情報をありがとうございました。

「小伝」の公開、楽しみです。

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)