児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜

江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜

今日9月29日は、大政奉還を行い、250年にもおよぶ江戸幕府の幕を閉じた15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が、1837年に生まれた日です。

15代将軍徳川慶喜は、長州藩の木戸孝允に「家康の再来を見る思い」といわせ、だからこそ幕府の体制がととのう前に早く倒さねばならないと考えさせたほど、頭のきれる人物でした。将軍慶喜の出現がもう少し早かったら、歴史は大きく変わっただろうといわれています。

慶喜は、1837年水戸藩(茨城県)主徳川斉昭の7男に生まれました。幼い時からすぐれた才知のある人と評判高く、10歳のときに一橋家を継いだのも、将軍となるためには幕府と血のつながりが遠い水戸家より一橋家のほうがよいと、周囲が考えたからでした。慶喜はそのころから将軍候補だったのです。

慶喜が20歳になったころ、慶喜は越前藩主松平慶永や薩摩藩主島津斉彬らに推せんされて14代将軍の候補に立てられていました。ところが、当時の大老井伊直弼らのグループに反対されて実現せず、慶喜は政界から追い出されてしまいました。

1860年、井伊直弼が暗殺されると、やがて14代将軍家茂(いえもち)の後見職にかえりざいて、朝廷と幕府のつながりを強くすることに力をつくしました。そして、1866年、病死した家茂にかわって慶喜が15代将軍職につきました。

慶喜はさっそく、徹底した幕府改革をおこない、幕府の力で諸藩をおさえこもうと必死の努力をしました。まず、老中会議の体制をあらため、海軍、陸軍、会計、国内事務、外国事務の総裁をおいて、内閣に近い政治体制をつくりました。兵制改革では、フランスから軍事教官をまねいて近代的な軍事訓練をさせました。また、これまでの例を破って、人材を登用し、経費の節約、儀礼の簡略につとめました。その他、税制の改定、留学生を海外へ送り、フランスから経済援助を受けてそのみかえりにフランス商社を設立、製鉄所建設までおしすすめたのです。

しかし、世の中の情勢は慶喜に味方してくれませんでした。開国をせまる諸外国との交渉、薩摩と長州を中心とする討幕派の強硬な動きに、慶喜は1867年土佐藩主山内豊信の進言により、政権を朝廷にかえしました。こうして江戸幕府はおわりましたが、慶喜は諸藩が連合する新政権をつくろうとしました。しかし「鳥羽伏見の戦い」にやぶれて江戸城にひきあげ、そして強硬な抗戦をさけ、上野の寺院に入って謹慎しました。こうして、薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟のはたらきで、江戸城は血を流すことなく開城されたのです。そのご慶喜は、水戸に移り、ついで静岡に移動して、76歳まで生きました。1902年には、維新に功績があったとして公爵の位がさずけられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)31巻「福沢諭吉・坂本龍馬・板垣退助」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月29日にあった主なできごと」

1872年 ガス灯の点灯…ガス灯が横浜の大江橋(桜木町駅近くの橋)から馬車道、本町通あたりに10数基設置されました。「あんどん」という油の中に灯心を入れたものしか見たことがなかった人々にとって、あまりの明るさに「あれはキリシタンの魔法だ」「近寄るな、すいこむと死んでしまうぞ」「外国人が横浜を火の海にする気だ」など大騒ぎしたと伝えられています。

1918年 原内閣成立…日本で初めての本格的な政党として原敬(たかし)内閣が成立しました。初めて爵位をもたない平民宰相として人々の期待を集めましたが、普通選挙制に反対したり、大正デモクラシーを弾圧するなど国民の期待を裏切る結果になり、3年後に原は18歳の少年に暗殺されてしまいました。政党内閣はその後1932年の犬養内閣までつづきましたが、やがて軍閥・右翼勢力にとってかわられました。

1972年 日中共同声明の調印…田中角栄首相と中国周恩来首相は、北京で日中共同声明を発表し、日本と中国の国交正常化の調印を行ないました。この調印によって、両国間の国交が正常化され、1978年には日中平和友好条約が結ばれることになります。 

投稿日:2008年09月29日(月) 08:58

 <  前の記事 「怪談」 の小泉八雲  |  トップページ  |  次の記事 間(ま)を大切に、ゆっくりと  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/1467

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)