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戦後政治の基礎を確立した吉田茂

今日9月22日は、1946年太平洋戦争敗戦の翌年に首相に就任、以来5回にわたって首相をつとめ、親米政策を推進して日米講和条約、日米安保条約を締結した吉田茂が、1878年に生まれた日です。

日本は、太平洋戦争に敗れた1945年をさかいに、それまでの軍国主義を捨て、民主主義国家をめざして歩みはじめました。吉田茂は、このとき、およそ8年のあいだに5度も内閣の首相をつとめ、新しい日本のスタートに力をつくした政治家です。

1878年に、高知県出身の政治家竹内綱の5男として生まれ、幼いうちに横浜の吉田家の養子となった茂は、学習院に学んで東京帝国大学へ進み、28歳で大学を卒業すると外務省へ入りました。そして、そのご約30年は、ひたすら、外交官として活躍をつづけました。

茂が50歳をすぎたころから、日本は、中国や東南アジアへの侵略を考え始めました。しかし、イタリア大使、イギリス大使などを経験して外国の事情に明るかった茂は、日本が戦争への道を進むことには反対でした。戦争が始まってからも和平をとなえ、そのため憲兵隊にとらえられたこともありました。

戦争が終わったつぎの年の1946年に、吉田茂内閣が生まれました。その年の総選挙で日本自由党が政権をにぎると、それまで平和外交の信念をつらぬきとおしてきたことが、おおくの人にみとめられて、党の総裁に迎えられたのです。

終戦後の日本の政治は、アメリカなどの占領軍の考えにそって進めなければなりませんでした。戦争に負けたからです。茂は、荒れ果てた日本を見わたして、第一歩をふみだしました。

まず、第九条に「日本国民の戦争放棄」をうたいあげた、新しい日本国憲法を制定しました。また、真理と平和を愛する国民を育てるための教育基本法を定め、中学校までを義務教育にする六・三・三・四制の教育制度を発足させました。

いっぽう、それまでの地主制をあらためる農地改革法によって、貧しい農民でも土地がもてるようにしたほか、労働基準法を定めて、労働者の権利が守られるようにしました。

歴史に大きく残っているのは、サンフランシスコにおける対日講和条約の調印です。1951年9月、日本の代表として講和会議にのぞんだ茂は、アメリカをはじめ48か国と平和条約をむすび、日本を、ほんとうの独立国家として出発させました。

吉田内閣は、いちじは、労働運動や共産主義に弾圧をくわえるなど、民主主義にそむくこともおこないました。また、アメリカと安全保障条約をむすび、やがて自衛隊をつくるなど、そのごに大きな問題を残した政治も進めました。しかし、そのような政治への批判はあっても、日本を敗戦から復興へみちびいた功績によって、信念ある政治家としてたたえられています。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月22日にあった主なできごと」

1852年 明治天皇誕生…父孝明天皇の死後、1867年に即位。明治天皇は、江戸第15代将軍徳川慶喜の大政奉還後、王政復古を宣言。翌1868年には、国民の考えを尊重することなどを誓った「五箇条の御誓文」を発表して新しい政治の大方針を打ちだしました。そして、日本の近代化と天皇制国家の確立に重要な役割を果たしました。しかし、天皇の権力が絶大になり、これを日清・日露戦争に勝利した軍隊が利用し、その後の日本が軍国主義に導かれていったことも忘れられません。

1862年 リンカーン奴隷解放宣言…第16代アメリカ合衆国大統領リンカーンは、2年前に合衆国から脱退したアメリカ南部連邦11州との戦い(南北戦争)の最中、「翌年1月1日から奴隷解放を実施する」という歴史に残る宣言を布告しました。

1868年 会津若松城落城…4月の江戸城無血開城のあと、会津藩主松平容保(かたもり)は、仙台・盛岡・米沢・庄内などの諸藩と同盟して、旧幕府軍の残党を加えて、薩摩・長州などを中心とした官軍とたたかうことになりました。8月に官軍の一隊は同盟の中心となっていた会津若松城下に入り、市街戦、籠城戦となりましたが、この日降伏開城、半年近くに及ぶ会津戦争は終わりました。

投稿日:2008年09月22日(月) 09:13

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)