今日9月18日は、ロシアの科学者で、飛行機が登場する以前から宇宙旅行の夢を描き、人工衛星や人類の月面到着や、多段式ロケットの利用などを理論的に研究していたチオルコフスキーが、1857年に生まれた日です。
宇宙ロケットの研究を、いまからおよそ100年ほど前に世界で最初に始めたのが、ロシアの物理学者コンスタンチン・エドアルドビッチ・チオルコフスキーです。
1857年にモスクワ近くの小さな村で生まれたチオルコフスキーは、9歳のとき、しょうこう熱という病気にかかって耳が聞こえなくなってしまいました。
学校へも行けず、友だちとあそぶこともできませんでした。少年のチオルコフスキーには、音のない暗い毎日がつづきました。しかし、そんなさびしさを、父の持っていた科学や数学の本が救ってくれました。やがて風の力で走る帆車や、きょりを測る天測儀などを作り、村で評判の科学少年になりました。
チオルコフスキーは、16歳のときモスクワへ勉強に行き、毎日図書館にかよっては、ひとりで勉強にはげみました。やがて、ふるさとに帰り、先生の資格をとって、村の中学校の数学教師になりました。
「人類が宇宙を飛びまわる日が、かならずやってくる」
飛行機が発明される20数年もまえでしたが、教師となったチオルコフスキーは、すでに宇宙への夢をいだいていました。
1903年、アメリカのライト兄弟が木と布の飛行機で初めて空を飛ぶのに成功しました。しかしもっとすすんだ飛行機を研究していたチオルコフスキーの心は、少しもさわぎませんでした。
「飛行機は、重くても金属でなければだめだ。機体は流線型にして、つばさは2枚や3枚よりも1枚のほうがよい」
チオルコフスキーは、ただ空に浮かぶというだけではない飛行機の未来のすがたを、考えていたのです。
飛行機ばかりではありません。ライト兄弟の成功より10年もまえから『月の上で』『地球と宇宙にかんする幻想』などの空想科学小説や、『ロケットによる宇宙空間の研究』などの論文を書いて、ロケットや人工衛星のことまで考えていました。さらに、人間が月の上に立つことさえ見通していたのです。
1917年にロシア革命が起こってソビエト政府ができると、チオルコフスキーは科学アカデミー会員にえらばれ、宇宙に飛びだすための多段式ロケットの研究をつづけました。そして1935年、宇宙への夢を、自分の育てた研究者たちにたくして、78歳で亡くなりました。
1959年に月の裏がわの写真さつえいに成功したソ連では、その噴火口のひとつを「チオルコフスキー噴火口」と名づけて、この偉大な宇宙科学者をたたえました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 13巻「ノーベル・マークトゥエーン・コッホ」の後半に収録されている7名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「9月17日にあった主なできごと」
1062年 前九年の役…平安時代後期、奥州(東北地方)を舞台に、源頼義が、東北地方の大豪族安倍一族を滅亡させた戦役。1058年安倍頼時ひきいる蝦夷軍が源頼義の挑発にのって敗北、安倍頼時の子貞任(さだとう)・宗任(むねとう) 兄弟は、亡父にかわって抵抗し戦いを有利に進めました。しかし、源頼義軍が出羽の豪族清原武則を味方につけ逆転、この日の厨川(くりやがわ)の戦いで安倍貞任は討死、宗任は降伏しました。
1789年 「寛政の改革」第1弾…天明の大飢饉のあと老中となった松平定信は、米を蓄えておけば、百姓一揆や打ちこわしが防げるだろうと考え、この日全国の諸大名に1万石につき50石の割合で米を蓄えるという囲米(かこみまい)を命じました。
1894年 黄海の海戦…黄海は、朝鮮半島と中国山東半島の間にある海で、ここで日清戦争最大の海戦といわれる戦いがおこり、激戦の末、日本の連合艦隊が、清の北洋艦隊を破りました。これにより、日本は完全に制海権を握り、以後の戦局を有利に進めることができました。軍歌「勇敢なる水兵」(♪ 煙も見えず雲もなく 風もおこらず波立たず 鏡のごとき黄海は 曇り初めたり時の間に) が、全国で歌われるようになりました。
1964年 モノレール羽田線開通…山手線浜松町駅と羽田空港を結ぶ東京モノレール羽田線が、この日開通しました。東京オリンピックに間に合わせるために、終夜の突貫工事が行われたため多大な建設費がかかり、当初は途中駅がなく乗客は空港利用客のみ。タクシーの初乗り料金100円のころにしては、運賃片道250円と高かったたためか、乗車率20%程度だったようです。