今日9月10日は、黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が1951年に、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞した日です。以来海外では、黒沢明を 「世界のクロサワ」 と呼ぶようになりました。
黒沢明監督の 『羅生門』 が、国際的な映画祭でグランプリ(大賞)を受賞したことで、ヨーロッパの人びとは、日本映画の水準におどろき、これをきっかけとして、欧米でも日本映画が次つぎに上映されるようになりました。こうしたことからも、この受賞は、黒沢ひとりの名誉だけではなく、深い意味をもつものでした。
黒沢明は、1910年(明治43年)東京大森に生まれ、はじめは画家になりたいと考えていましたが、新聞で助監督募集の広告をみて、PCL(今の東宝)に入社しました。7年ほどつづいた助監督の時代に、シナリオ(脚本)をせっせと書いて、早くもすぐれた才能をみせました。監督に昇進しての第1作は 『姿三四郎』 です。ひとりの若者が柔道家として成長していくすがたをえがいたこの作品は、暗い戦時下に生きる人びとに、新鮮な感動をあたえました。
戦後は 『酔いどれ天使』 『野良犬』 『生きる』 などの名作を発表します。これらの映画は、この社会の片すみに生きる人びとに眼をむけたものです。たとえば 『生きる』 の主人公は、書類の山にうずもれて暮らしてきた市役所のひとりの課長です。ある日、課長は、自分ががんであることを知り、今までの自分の人生には、どんな意味があったのかと考えます。そして、さいごの努力を児童公園を作ることにかたむけ、死んでいく物語です。黒沢は、人間はいかに生きるべきかを、作品の中に取りあげたのです。
『七人の侍』 『用心棒』 『隠し砦の三悪人』 など、黒沢の作品には誰にでも楽しめる痛快な時代劇もあります。これらの映画はあまりにもよくできていたので、イタリアやアメリカで西部劇として、もう1度作られたほどでした。
黒沢の映画を作る姿勢のきびしさは有名です。1つのシナリオを作るのにも、数人の脚本家と合宿してアイデアを出し合い、おたがいに妥協せずにつきつめていきます。撮影に入ると、自分の思うとおりの画面のできるまで、何度もねりなおしがおこなわれます。これが、映画に緊張と迫力を生むのです。
黒沢はソ連に行って 『デルス・ウザーラ』 をつくり、モスクワ国際映画祭でグランプリをとりました。1980年には 『影武者』 がカンヌ映画祭でグランプリをとり、1985年フランスとの合作の 『乱』、1990年には 『夢』 を発表しましたが、日本では、名作だという人もあれば、つまらないという人もあって、評価は2分しています。しかし、このことは、それだけ人びとの黒沢明への期待の大きさを語っているともいえるでしょう。
1993年 『まあだだよ』 を発表、次回作に予定していた 『雨あがる』 の脚本執筆中に倒れて、1998年88歳でなくなりました。翌年米週刊誌タイムは 「今世紀最も影響力のあったアジアの20人」 にクロサワを選びました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」をもとにつづりました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「9月10日にあった主なできごと」
1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。今日の4回目の戦いがもっとも激しいものだったようで、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。
1960年 カラーテレビの本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。