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「新世界より」 のドボルザーク

今日9月8日は、「スラブ舞曲」や「新世界より」などの作曲で名高いチェコ・ボヘミヤ音楽の巨匠ドボルザークが、1841年に生まれた日です。日本人によく親しまれている「家路」(♪ 遠き山に日は落ちて・・・)は、交響曲第9番「新世界より」に出てくるフレーズです。

チェコ西部に生まれ、町から町へさまよい歩くジプシーたちの音楽を耳にしながら育ったアントニン・ドボルザークは、幼いころから、心に音楽の火をともして成長しました。

ところが、12歳になったとき、父に「家にはお金がない」とさとされ、肉屋へ、はたらきにだされてしまいました。でも、夢を捨てきれないドボルザークは、父にかくれて音楽を学び、16歳でプラハのオルガン学校へ入って苦学をつづけました。そして卒業ごは、昼は音楽の家庭教師、夜はホテルの楽団員をして、音楽家への道をあゆみはじめました。また、21歳から12年間は、プラハの国民劇場管弦楽団のビオラ奏者をつとめながら、作曲にもはげみました。

「わたしは、チェコ人だ。チェコ民族の音楽を作ろう」

このころのチェコは、オーストリアに支配されていましたが、ドボルザークは祖国愛にもえて、作曲にとりくみました。34歳のときに、幸運がおとずれました。オーストリア政府から、すぐれた芸術家として奨学金が支給されるようになり、そのうえ、祖国の美しさと人びとのやさしさをたたえた『スラブ舞曲』が、ドイツの大作曲家ブラームスにみとめられたのです。また、ブラームスの協力で『スラブ舞曲』などの楽譜が出版され、作曲家ドボルザークの名は、ヨーロッパじゅうに広まりました。

50歳でプラハ音楽院の教授にむかえられ、さらにつぎの年にはニューヨークの音楽学院に院長としてまねかれ、アメリカへ渡りました。交響曲『新世界より』、弦楽4重奏曲『アメリカ』などを作曲したのは、このときです。

「人間の愛と、ふるさとへの思いにみちあふれた美しい曲だ」

『新世界より』が演奏された日のカーネギー・ホールは、超満員の人であふれ、われるような拍手がなりやみませんでした。しかし、祖国の自然が恋しくてしかたがないドボルザークは、わずか3年でアメリカをはなれ、プラハへ帰りました。そして、おおくの協奏曲、交響曲、歌劇を生み、プラハ音楽院院長やオーストリア上院議員をつとめ、63歳で世を去りました。

ドボルザークは、蒸気機関車が大すきでした。幼いときから、黒い鉄のかたまりの力強さともの悲しさに心をひかれ、60歳ちかくになっても、散歩のときには機関庫へ立ち寄って、ひとり静かに機関車をながめていたということです。ドボルザークは、祖国を愛しつづけた心のやさしい音楽家でした。そのやさしさが、チェコ国民音楽のきそをきずきました。

以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 12巻「ファーブル・トルストイ・ロダン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。

「9月8日にあった主なできごと」

1868年 年号をこれまでの「慶応」(4年)から「明治」(元年)と改めました。同時に、今後は1天皇は1年号とする「一世一元の制」を定めました。

1951年 第2次世界大戦で、無条件降伏をして連合国の占領下におかれていた日本国民は、1日も早い独立を願っていました。1950年に朝鮮戦争がはじまると、アメリカは日本を独立させて資本主義の仲間入りをさせようと、対日講和の早期実現を決意しました。そしてこの日、日本の全権大使吉田茂首相は、サンフランシスコで戦争に関連した48か国と講和条約に調印し、6年8か月にわたる占領が終わり、独立を回復しました。しかしこの時、アメリカとの間に「安全保障条約」を結んだことで、日本国内に700か所以上もの米軍基地がおかれるなど、本当の意味での独立国にはなりきれず、さまざまな波紋を残すことになります。

投稿日:2008年09月08日(月) 09:05

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)