今日9月5日は、仏教を題材に生命力あふれる独自の板画の作風を確立し、いくつもの世界的な賞を受賞した版画家棟方志功(むなかた しこう)が、1903年に生まれた日です。
棟方志功は、1903年(明治36年)青森市に生まれました。青森には、東北三大祭りのひとつであるねぶたがあります。赤や青、黄など原色でえがいた勇壮な武者人形のなかに明かりを入れて、町じゅうをひっぱりまわす豪快な夏の祭りです。また、冬になると空にうなりをひびかせて大きなたこがあがります。こうしたねぶたやたこの絵が、志功をとりこにし、絵の楽しさを教えてくれました。ですから、志功の絵や版画は、同じように骨太な線と強い色彩でえがかれ、土のかおりのする生命力にあふれています。
青年時代、文学や演劇や詩歌を研究する集まりを作っていた志功は、ある日、友人からゴッホの『ひまわり』の絵を見せられました。その燃えるような色彩をもつ、からだごとぶつけてかいたような絵に、志功は思わずさけびました。
「ようし、おれは、日本のゴッホになるぞ」
こうして、21歳のとき、画家になるため、志功は東京に出てきました。しかし、めざす帝展(今の日展)には、なかなか入選できません。志功は、生活費をかせぐために、看板かき、なっとう売り、靴屋の手伝いなどをしながら、勉強をつづけました。1928年に、やっと帝展に出品した油絵が初入選しました。しかし、生活の苦しさはかわりません。それでも、そのころ、妻になったチヤ子は、志功をはげましました。
「そのうちきっと世界一になるときがくるよ」
1938年、志功は帝展に版画で『善知鳥』という作品を出しました。今年も落選かと思っていると、夜、雨のなかをふたりの友人がかけつけてきました。志功の作品が特選となったのです。志功は大声をあげて踊りまわりました。
志功の作品は、日本だけでなく、ベネチア・ビエンナーレ国際版画大賞などを受け、海外でも高く評価されました。志功が版画を彫るときの姿勢は、板にむしゃぶりついていてまるで板と格闘しているようでした。
「板刀と板木さえ手にしていれば、わたしの生命はあるようです。いや、生命がなくたって、版画は出来つつあるといえます。そうなることが望ましいことであるし、そうこなくてはならないのが版画のようです」
ちっぽけな自己からぬけ出たとき、自然の力は自分を助けて、さらに高く広い心の作品を生み出してくれると、志功は考えていました。1970年、文化勲章を贈られ、1975年9月13日、72歳で亡くなりました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「9月5日にあった主なできごと」
1905年 セオドア・ルーズベルトアメリカ大統領のあっせんにより、アメリカのポーツマスで、日露戦争のあとしまつをするための講和条約に、日本の全権大使小村寿太郎、ロシアの全権大使ウイッテが調印しました。日本は、樺太の南半分の割譲と朝鮮支配の優越権などは認められましたが、賠償請求は全面的に撤回されました。これに怒り内閣を倒そうとする人たち数万人が、日比谷公園で講和反対集会を開き、暴徒化した市民が内相官邸や交番などを焼き討ちしました。東京は無政府状態となり、翌日政府は戒厳令を敷いて騒動を治めました。
1972年 ドイツ(当時西ドイツ)のミュンヘンで行なわれていた第20回オリンピック夏季大会中、パレスチナ・ゲリラがオリンピック村のイスラエル宿舎を襲い、2名を殺害、9名を人質にとりました。西ドイツ警察は、ゲリラと人質を空軍基地に移して救出作戦を強行したところ、ゲリラがヘリコプター1機を手榴弾で破壊するなどして激しく抵抗したため、銃撃戦は長時間に及び、人質となった9名全員、警察官1名、ゲリラ8名のうち5名が死亡するという事態が発生、「平和なスポーツの祭典」に大きな汚点を残しました。