今日9月1日は、フランスブルボン王朝の第3代国王で、「朕は国家なり」(私そのものが国家だ)というほどの権力をふるった、絶対専制君主ルイ14世が、1715年に亡くなった日です。
フランスのブルボン王家では、1643年にルイ13世が亡くなり、子のルイ14世が、わずか5歳で国王の位をつぎました。ルイ14世は、両親の結婚から22年もたって生まれた王子です。即位はしても、実際の政治は、母親のアンヌと宰相のマザランが行ないました。それでもルイ14世は、子ども心に、一国の王として「ぼくは、だれよりも偉い」と信じ、わがままいっぱいに育ちました。やがてルイ14世は、絶対君主の政治をおしすすめ、権力をふるうようになります。
ルイ14世が自分で直接政治にたずさわるようになったのは、マザランが死んだ1661年からです。もう宰相という総理大臣はおかず、国王自らの手で政治を行なっていくことにしました。
「宰相に政治をまかせてはいけない。王自身が国を治めることこそ、神からあたえられた権限だ。私そのものが、国家である」 国土も国民も、自分のものであると23歳の若い王は考えました。最高国務会議も形だけのもので、ルイ14世の一声ですべてが決められました。
祭りの時、王が着る衣装には、太陽がいちめんにデザインされています。喜びを生む太陽、永遠に輝く太陽を、王のシンボルとしたのです。人びとはルイ14世を「太陽王」とよびました。
ルイ14世は、自分と違う考えをもつ政治家や貴族を、どんどん追放しました。それまで、行政官や軍の司令官になるのは、名門の貴族に限っていましたが、これを、金持ちの商工業者から人を採用し、役につかせました。たとえば、国の経済を豊かにするために、コルベールという人を財務長官に任命しました。コルベールは毛織物商人の息子でしたが、王の政策をたくみにとりまとめて大きなはたらきをしました。ヨーロッパで、もっとも強い軍隊をつくった陸軍大臣のルーボアという人も、商人の出身でした。このようにしてルイ14世は、国の政治を改革し、同時に王の権力も強くしていったのです。しかし、絶対王政のゆきすぎは、国民を苦しめました。
そのころ国内に、新教徒がふえてきました。これに対し、旧教の王は、祖父アンリー4世が信仰の自由をみとめたものを廃止して、新教徒の地位や財産をとりあげるなどの迫害をくわえました。このため、数十万人の新教徒たちが、国外に逃げだしたといわれます。ルイ14世が、世界一豪華なベルサイユ宮殿を建てたのは1682年のことです。昼も夜も、音楽やバレーが演じられ、ぜいたくにパーティーをくりひろげている間に、フランスの国力はだんだんおとろえていきました。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。
「9月1日にあった主なできごと」
1923年 午前11時58分、関東地方一体に震度7.9(激震)という大地震・関東大震災がおこりました。東京では130余か所で火災がおきて半分以上を焼き尽くし、関東全域で死者10万人以上、災害にあった人は400万人にものぼりました。不安が高まる中に「朝鮮人が暴動をおこした」「井戸に毒を流した」などというデマが乱れとび、罪のない朝鮮人や中国人数千人が殺されました。
1939年 ヒトラーの率いるドイツ軍は、突然隣国のポーランドに侵攻しました。この行動に対し、イギリスとフランスは、兵を引き上げるように要求しましたがヒトラーはこれを受け入れず、9月3日に英仏はドイツに宣戦布告、第2次世界大戦が勃発しました。戦争はヨーロッパ全体に広がり、やがて世界のほとんどを巻きこむ大戦争になっていきました。
1960年 前年に襲来して、5000人を越える死者・行方不明者、39000人の負傷者という大災害をおこした伊勢湾台風と、関東大震災のおきた日にちなみ、防災意識を高めようと、政府はこの日を「防災の日」と定めました。
1983年 ニューヨーク発、バンクーバー経由ソウル行の大韓航空機が、誘導装置の設定ミスによるソ連領空侵犯のために、ソ連戦闘機に撃墜され、乗客乗員269人が死亡しました。