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古代中国の聖人「論語」の孔子

今日8月27日は、古代中国の思想家で、「仁」を重んじる政治を唱えたくさんの弟子を育てた孔子(こうし)が、紀元前551年に魯(ろ)の国に生まれたとされる日です。孔子の教えは、弟子たちの手で「論語」としてまとめられ、孔子を始祖とする思想・信仰の体系は「儒教」と呼ばれ、江戸時代では、もっとも大切な学問とされていました。

孔子が生きていたころの中国は、「春秋時代」といって、「周」という国が衰えて形だけの王朝のもとに、諸国で諸侯(王)が勝手な政治をおこなっているという乱れた時代でした。孔子はそんな時代の小国「魯」という国に生まれました。

論語に、つぎのような一節があります。「吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心に欲するところに従えども矩をこえず」 (私は15歳で学問に志ざし、30歳になって一本立ちし、40歳になって惑わされなくなり、50歳で大きな使命(天命)に気づき、60歳で天命に従うようになり、70歳で心に思ったことをしても道からはずれることがなくなった)

この言葉の通り、孔子は、幼い頃からの貧しい生活にもめげずに学問の道を志し、古典を読み、古代の美しい伝統を、乱れた世の中によみがえらそうと考えました。そんな懸命な努力が実って、30歳には何人かの弟子ができたようです。36歳の時、魯王が心のよくない臣下に国を追い出されると、孔子もまた故国を捨てました。その後孔子は、10数年もの間、自分の信じる道を行なってもらいたいとさまざまな国を訪れましたが、どの国も孔子をあいてにしなかったため、むなしく魯の国に帰りました。政治家もめざしましたが、自分の仕事は教育者であることを自覚して、大きな成功をおさめたことが、70歳の言葉になったのでしょう。

孔子の弟子はおよそ300人もいたようです。そして、りっぱな弟子が孔子の言葉をまとめて「論語」に残したことが、2500年もたった今も生きているのは驚きです。論語は、やがて「中庸」「孟子」などを生んで、東洋の一つの道「儒教」となりました。長い歴史の中で、孔子の保守主義が愛国主義に利用されたり、つりあいを重視する中庸が折り合い主義になったり、孔子の残した道筋をゆがめてしまうことも多くありましたが、生きる知恵にみちあふれた真実の言葉に満ちあふれています。ぜひ「論語」に目を通されることをお勧めします。

なお、孔子の詳しい生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック(「せかい伝記図書館」を公開中) の 「孔子」 を、ご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。

「8月27日にあった主なできごと」

663年 当時朝鮮半島では、新羅(しらぎ)が唐(中国)の力を借りて、百済(くだら)と高句麗(こうくり)を滅ぼして半島を統一しようとしていました。百済から援軍を求められた斉明天皇は、日本水軍を援軍に送りましたが7月に病没、かわって中大兄皇子(なかのおうえのおうじ)が全軍の指揮にあたりましたが、この日、白村江(はくすきのえ)で、新羅・唐軍を迎え撃って奮闘しましたが、翌日に破れてしまいました。

1859年 安政の大獄で、大老井伊直弼は、水戸の徳川斉昭を永蟄居(ながのちっきょ)、15代将軍となる徳川慶喜(よしのぶ)を隠居謹慎を命じました。これを恨んだ水戸浪士たちは、翌年3月桜田門外で井伊直弼を暗殺しました。

1957年 茨城県東海村にある原子力研究所の原子炉で、初めて「原子の火」が灯りました。この原子炉は、ウランなどが原子核反応によって得たエネルギーを、発電用に利用するために建設されたものです。

1969年 山田洋次監督・渥美清主演の映画シリーズ「男はつらいよ」の第1作が公開されました。シリーズは48作にもおよび、国民的映画シリーズとなって、ギネスブックの世界最長記録にも認定されました。

投稿日:2008年08月27日(水) 09:22

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)