児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  絶世の美人? クレオパトラ

絶世の美人? クレオパトラ

今日8月12日は、古代エジプト・プトレマイオス朝最後の女王クレオパトラが、紀元前30年に毒蛇に身をかませて亡くなったといわれる日です。

エジプトの女王クレオパトラは、その美しさで世界の人びとに知られていますが、外国語にもくわしい、教養のある女性でした。プトレマイオス王家をまもるために、ローマの武将とかかわり、最後には、自殺をするというめまぐるしい人生を送りました。

クレオパトラは、プトレマイオス12世の王女として生まれ、父がなくなった17歳のとき、弟とともに王位をつぎました。王家のしきたりにより弟プトレマイオス13世と結婚し、いっしょに国をおさめることになったのです。でも、二人はなかたがいをし、クレオパトラは弟に宮廷を追い出されてしまいました。クレオパトラが20歳の年、ローマ軍をひきいたシーザーが、エジプトへやってきました。クレオパトラはシーザーの力をかりて、弟の軍をやぶり、王位をとりもどしました。

クレオパトラとシーザーは愛しあい、男の子をもうけました。クレオパトラ親子は、ローマで2年ちかく住みましたが、シーザーが暗殺されてしまったので、エジプトへ帰ってきました。

シーザーが死んだのち、ローマで権力者になったアントニウスは、資金をえようとしてエジプトの財産に目をつけてクレオパトラに近づきました。クレオパトラも、王家を建てなおそうと考えていましたので、アントニウスと手をむすびました。そして、エジプトにとどまったアントニウスは、クレオパトラと結婚しました。ローマのもう一人の権力者オクタウィアヌスは、シーザーの養子で、アントニウスに捨てられた妻の弟です。アントニウスのふるまいに腹をたてたオクタウィアヌスは、ローマ軍をひきいて、戦いをいどみました。紀元前31年、オクタウィアヌスの艦隊は、アクチウムの海戦で、クレオパトラとアントニウスの艦隊をうちやぶりました。

クレオパトラとアントニウスは、エジプトの都アレクサンドリアに逃げもどりました。それを追ってオクタウィアヌス軍はアレクサンドリアに攻めこみ、都を占領して、城をとりかこみました。もうこれまでと、アントニウスは自殺してしまいます。追いつめられたクレオパトラは、オクタウィアヌスを誘惑しようとしたり、エジプトとローマは、兄弟国としてまじわるべきであると説いたり、いろいろないいつたえがあります。しかし、オクタウィアヌスは、女王クレオパトラにたいしてつめたかったようです。クレオパトラは、毒ヘビに胸をかませて自殺しました。300年つづいたプトレマイオス王朝はほろび、エジプトはローマに支配されました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 2巻「アレクサンドロス・シーザー・イエスキリスト」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

「8月12日にあった主なできごと」

紀元前490年 ギリシアのマラトン(英語読みマラソン)で、1万人のギリシア軍と10万人のペルシア軍が戦いギリシアが勝利をおさめました。戦いに勝ったことを知らせるために、ギリシア兵のフェイディピデスが首都アテネまでの42,195mを休まずに走り続け「わが軍勝利」といって死んでしまいました。この逸話を記念して、1904年の第1回近代オリンピックから、マラソン競技としてとり入れられました。

1893年 「君が代」など8曲が小学校祝日唱歌に定められ、国民の祝典や学校の式では必ず歌われるようになりました。太平洋戦争後は、天皇を賛美する歌として強制されなくなりましたが、1999年「国旗国歌法」で正式に「日の丸」が国旗、「君が代」が国歌と定められました。国民の誰もがよろこんでうたえる国歌がほしいという声も根強いものがあります。

1962年 堀江謙一が小型ヨット(全長5.8m 幅2m)で兵庫県西宮をたった一人で出発し、93日後のこの日アメリカのサンフランシスコに到着。日本人初の太平洋横断に成功しました。

1985年 日航機123便が、群馬県御巣鷹山の南にある高天原(たかまがはら)山に墜落。死者520人という日本国内で発生した航空機事故では最多、単独機の航空事故では世界最多という大惨事となりました。「上を向いて歩こう」を歌い世界的ヒットをさせた歌手坂本九もこの犠牲者の一人。

投稿日:2008年08月12日(火) 09:17

 <  前の記事 鋼鉄王・カーネギー  |  トップページ  |  次の記事 下克上のチャンピオン豊臣秀吉  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/1417

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)