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国際人・新渡戸稲造

今日8月3日は、国際連盟事務局次長などを通じ、日本の国際的な発展に寄与した教育者 新渡戸稲造(にとべ いなぞう)が、1862年に生まれた日です。なお、以前の5000円札(現在は樋口一葉)は、新渡戸稲造の肖像画でした。

「もし天が許せば、太平洋の橋になりたい」

新渡戸稲造は、東京大学に学んでいたころ、このように語っています。日本と外国との交わりを進めて、世界における日本の地位の向上に役だつことを、心にちかったのです。

明治時代が始まる5年まえに、盛岡藩士の家に生まれた稲造は、15歳のときに、札幌農学校(いまの北海道大学)へ入学しました。この学校をつくるために招かれていたクラーク博士が、キリスト教の精神と「少年よ大志を抱け」という言葉を残してアメリカへ去った、すぐあとのことです。同期生の内村鑑三らと洗礼を受け、クリスチャンとして生きるようになりました。

農学校を終え、さらに東京大学で勉強をつづけた稲造は、22歳のとき「太平洋の橋」になる夢を心にひめてアメリカへ渡り、経済や歴史や文学を学びました。また、そのあとつづいてドイツへも留学して、農業に関する政治や統計学を研究し、28歳で帰国すると、札幌農学校の教授にむかえられました。

「太平洋の橋」の夢をまずひとつ果たしたのは、そのご、アメリカで静養していた37歳の年の『武士道』の出版です。日本人の心や道徳についての考えを英文で伝えると、おおくの外国人に、日本への目を開かせました。

1901年、稲造は、日本の植民地となっていた台湾へ渡り、総督府の殖産技師の任につきました。そして、植民地を力で支配するのではなく、人びとに新しい文化を伝えるという大きな心で、熱帯地産業の発展に力をつくしました。稲造の心には、すべての人間への愛が、あふれていたのではないでしょうか。

やがて日本へ帰った稲造は、こんどは、京都帝国大学(京都大学)の教授にむかえられました。また44歳の年から7年間は東京帝国大学(東京大学)の教授をかねながら、第一高等学校の校長をつとめました。のちには東京女子大学の学長もつとめています。大学教育にたずさわっているあいだ、いろいろな雑誌にやさしい論文を発表して、はたらく青年や、婦人たちにも、自己の人格をみがかなければいけないことを、よびかけています。日本人のかがやかしい将来を、期待していたのでしょう。

稲造は、60歳ちかくなってから 「太平洋の橋」 の願いを、大きく果たしました。およそ7年にわたって国際連盟事務局事務次長として世界の舞台に生き、また、太平洋問題調査会の理事長として世界の平和に心をかたむけ、そのあいだに、日本の国際的な発展に命をもやしたのです。太平洋問題会議にでかけたとき、太平洋のむこうのカナダで1933年、71歳の生涯を終えました。

なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。

投稿日:2008年08月03日(日) 12:54

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)