今日6月13日は、「人間失格」 「走れメロス」 「斜陽」 などを著した作家であり、当社 「いずみ書房」 のある三鷹市と縁の深かった作家 太宰治(だざい おさむ) が、1948年に亡くなった日です。
『晩年』 『斜陽』 『人間失格』 などの作品で知られる太宰治は、雪のふかい青森県北津軽郡の出身です。1909年(明治42年)6月19日、大地主で、県会議員でもある父のもとに6男として生まれた太宰治(本名津島修治)は、使用人が10数人もいる、大きな家に住み、めぐまれた少年時代を送りました。
「私は散りかけている花弁(はなびら)であった。すこしの風にもふるえおののいた。人からどんなささいなさげすみを受けても死なんかなともだえた」(『思ひ出』)
ほこり高く、しかし、傷つきやすい心をいだいた少年でした。自分の進む道は文学以外にないと決心したのは、中学3年の16歳のときです。弘前高等学校から東京帝国大学(東京大学)仏文科に進んだ太宰は、前から尊敬していた作家の井伏鱒二と会い、小説を書きはじめました。やがて、作品は第1回の芥川賞候補にもなり、新進作家として認められはじめましたが、やさしく繊細で、人一倍はずかしさを感じやすい太宰にとって、生きることすべてが苦痛に思われました。
「私は、人間をきらいです。いいえ、こわいのです。人と顔を合わせて、おかわりありませんか、寒くなりました、などと言いたくもないあいさつを、いいかげんに言っていると、なんだか、自分ほどのうそつきが世界中にいないような苦しい気持ちになって、死にたくなります」(『待つ』)
太宰の文章のなかには、よく 「死」 という言葉がでてきます。実際、30歳になるまでに、睡眠薬を飲んだりして、4回も自殺をはかっています。とくに21歳のとき、女性と鎌倉の海で心中をはかり、女の人は死に、自分だけ助かったことは、太宰にとって大きな衝撃でした。そして罪を犯したという意識に苦しみつづけます。太宰の小説はこうした生きることの苦しみが土台になっています。でも、深刻にかくことは太宰にはできません。悲しい素顔をかくして、人を笑わせるピエロのように、少しおどけてみせるのです。
1939年、妻を迎えた太宰は、次つぎに作品を発表し、戦後は、ぼつ落していく貴族をえがいた 『斜陽』 がとくに評判となりました。しかし 「死」 はつきまとって離れませんでした。1948年6月、太宰は、ふと知りあった女性、山崎富栄と玉川上水に身を投じました。毎年、死体の発見された6月19日 には、墓のある東京三鷹の禅林寺で、太宰をしのぶ 「桜桃忌」 が開かれ、若い人たちもたくさん集まります。太宰の作品の純粋な心が、人びとをひきつけるためでしょう。
この文は、いずみ書房 「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 36巻「宮沢賢治・湯川秀樹」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。
さて、今年は太宰治の没後60年に当たります。6月19日の 「桜桃忌」(誕生日でもあります) には、例年にまさる太宰ファンが墓前へ訪れることでしょう。三鷹市では、市内のあちこちに太宰の記念碑や、かつての仕事場があった場所、なじみの店の跡など10か所に案内板を設置したり、「三鷹太宰治マップ」 をこしらえて、散策を楽しめるような工夫をこらしています。「太宰治文学サロン」 では、Tシャツや一筆箋など太宰グッズの販売をしたり、筑摩書房では「太宰治賞」を毎年のように募集していて、その人気のほどが推察できます。なお、ネット文学館「青空文庫」 では、太宰治の212作品の原文を読むことができます。