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天台宗を開いた僧・最澄

今日6月4日は、桓武天皇が都を平安京に移し 「平安時代」 のはじまったころ、比叡山に天台宗を開き、奈良の旧仏教に対し大乗仏教を主張して、真言宗を開いた空海とともに、日本仏教の建設に務めた最澄(さいちょう) が、822年に亡くなった日です。

都へつづく国分寺の前の道を、さまざまな人が通ります。家来をつれた人や、きれいに着飾った人にまじって、やせほそったからだに重い荷を背負った貧しい農民がいます。つかれはてて道ばたにうずくまる人もいます。病人もいます。

「人間は、どうしてこんなに不平等なんだろう」

国分寺で修行しながら、その光景を見て、いつも心を痛めている若い僧がいました。この僧が、のちに、比叡山の延暦寺に天台宗をひらいた最澄です。

最澄は、767年に、近江国(滋賀県)で生まれました。父の三津首百枝(みつのおびと ももえ) は、中国から日本へやってきた渡来人の子孫でした。百枝は、自分の家を寺にかえてしまうほど、仏教を深く信仰していました。そのため、最澄もしぜんに僧への道を進み、11歳のときに髪をそって国分寺へ入ったのです。

最澄は、18歳のときに東大寺で、一人前の僧になりました。ところが、だれもが、大きな寺へ入って早く地位の高い僧になろうとするのに、最澄は比叡山にこもって、修行を始めました。国分寺の前の道で見た光景が忘れられず、そのうえ、自分のためだけに祈ろうとする僧たちのすがたが、疑問でしかたがなかったからです。それから、およそ10年、最澄は草ぶきの小さな堂で一心に仏の道をさぐり、794年に桓武天皇が都を平安京に移したころには、最澄の名は朝廷でも知られるようになりました。

804年、空海とともに、朝廷がさしむける遣唐船に乗って唐へわたりました。そして天台宗を学び、1年ののちにたくさんの経文をかかえて帰国した最澄は、桓武天皇に願いでて、ふたたび比叡山へ入り、ここに日本の天台宗を開きました。このとき最澄は39歳でした。

「仏教を心から信仰すれば、だれでも平等に仏になれます」

最澄は、この教えをかかげて、天台宗を広め始めました。ところが、最澄に理解が深かった桓武天皇が亡くなると、生きているあいだ仏につかえて、死ご、自分だけが仏になることを考えている僧たちに、反対されるようになりました。

「仏教にたいせつなのは、仏につかえる形式ではない。心だ」
 
最澄は、このように叫んで、古い考えの僧たちと論争をつづけました。しかし論争が終わらないうちに、55歳で亡くなってしまいました。死のまぎわ、弟子たちに 「自分の利益のために仏につかえてはならぬ」 と遺言したということです。死ご44年すぎた866年に、朝廷から伝教大師の号がおくられました。

なおこの文は、いずみ書房 「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 20巻「藤原道長・紫式部」 の後半に収録されている14名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。

投稿日:2008年06月04日(水) 09:12

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)