今日5月21日は、黄熱病・梅毒・狂犬病・蛇毒などの細菌の研究に、大きな成果をあげた野口英世が、1928年に亡くなった日です。
恐ろしい細菌が身体に入ると、多くの人は病気になったり、死んだりします。でも、その細菌がどんなものかがわからないと、菌を殺す薬をこしらえたり、殺す方法がわかりません。そんな恐ろしい細菌の研究に生涯をかけたのが野口英世で、特に熱帯地方に多い黄熱病の病原体を発見しながらも、アフリカでその黄熱病に倒れてしまいました。
野口英世の子どもの頃の名前は、清作といいました。清作の家はとても貧しく、6人家族の働き手は母親のシカしかありませんでした。清作が2歳になったとき、シカがうらの畑で仕事をしていると、突然 「ギャーッ!」 という清作の声が聞こえました。びっくりして家にもどると、なんと清作が、火の燃えているいろりに手をつっこんでいるではありませんか。すぐに清作をだきあげましたが、火の中につっこんだ清作の左手は、焼きただれていました。すっかりあわてたシカは、清作のやけどした手に味噌をぬり、その上に包帯をぐるぐる巻きつけました。近くに医者はいない上、いたとしても診てもらうお金がありません。こうして、清作の左手の指は握られたままみんなくっついて、木のこぶのようになってしまったのです。
やがて清作は、小学校へ通うようになりました。何かあるたびに、みんなは清作の手のことを 「てんぼう(丸太ん棒)」 といってからかいます。学校へ行くのがいやになった清作は、ずる休みをするようになりました。(清作をてんぼうにしたのは私だ。私の力で、清作を人に笑われない人間にしてあげなくては) と思ったのでしょう、シカは、ある日清作にいいました。「おまえは、手が使えなくても、頭ならいくらでも使えるはずだよ。悔しかったら、しっかり勉強して、みんなを見返しておやり」 と、励ますのでした。
清作は夢中で勉強をしました。そして、4年生になると学年の代表に選ばれ、低学年の子どもを教えるほどになり、もう 「てんぼう」 とばかにする者はいなくなりました。12歳で高等小学校に入ると、小林栄という先生が、優秀な成績を残すものの、清作の家が相変わらず貧しいのを知り、他の先生に相談して、清作の手の手術するお金を集めてくれました。手術が成功し、指が自由に動かせるようになった清作は、「よし、ぼくは医者になろう。そして、病気の人やケガをした人たちをぼくのように治してあげるんだ」 と、心に誓うのでした。
以上は、野口英世が医師となることを決意した有名なエピソードですが、その後の生涯につきましては、いずみ書房のホームページ・オンラインブック (「せかい伝記図書館」 を公開中) の 「野口英世」 を、ぜひご覧ください。約100名の伝記の一人として紹介しています。