今日5月20日は、自らの小説を 「人間喜劇」 と名づけたフランスの小説家バルザックが、1799年に生まれた日です。
「ナポレオンは、ヨーロッパを剣でひとつにしようとした。わたしは、ペンで、同じことをやってみせる」
このように語っていたというバルザックは、いつも、ま夜中から仕事を始めました。パリの人びとが寝しずまったころ、ベッドからぬけだして机に向かいます。ペンが原稿用紙の上をすべりだすと、もう、とまりません。手がつかれ、目がかすんでくると、毎日、何10杯でもコーヒーを飲みながら、10数時間でも1日じゅうでも書きつづけました。
『ゴリオ爺さん』 『谷間の百合』 『従妹ベット』 など91編の小説を、30歳のころからおよそ20年のあいだに書きあげ、それをひとつにして題をつけたのが、有名な 『人間喜劇』 です。小説の舞台はヨーロッパじゅうにおよび、作品の登場人物は2472人にのぼっています。バルザックは、自分のペンひとつで、フランスを中心にしたヨーロッパ社会をえがきだそうとしたのです。小説のほかに戯曲や評論も書きつづけ、そのすさまじい仕事ぶりは、神わざというよりほかはありません。これほどまでに仕事にむちゅうになったのは、借金に追われていたからだ、ともいわれています。
オノレ・ド・バルザックは、フランスのツール市に生まれ、役人をしていた父の転任で、15歳のとき、パリへ移り住みました。そして、両親のすすめで、大学では法律を学びました。しかし、自分の才能は文学に適していることを信じてきたバルザックは、両親を説きふせて町はずれの屋根裏部屋に閉じこもり、小説を書き始めました。ところが、5年の歳月が流れても、小説家への道は開けませんでした。
生活に困りはてたバルザックは、ひと財産つくりあげることを夢見て、印刷業を始めました。でも、大失敗に終わり、2、3年ごに手もとに残ったのは、ばく大な借金だけでした。バルザックは、こんどこそと、命がけでペンをとりなおしました。そして、ついに歴史小説 『みみずく党』 がみとめられ、ま夜中に起きだし、コーヒーをあおって 『人間喜劇』 にいどむようになったのです。
借金に追われたからだとしても、バルザックの残した 『人間喜劇』 は偉大です。人間社会をありのままにえがく写実主義に、小説家のたくましい創造力を加えて、近代文学のきそをきずきあげました。1850年、バルザックはコーヒーで命をちぢめて51歳で世を去りました。「ビアンションをよべ」。死にぎわに叫んだ人の名は、自分が書いた小説のなかの医者でした。
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 9巻「スチーブンソン・シューベルト・アンデルセン」の後半に収録されている7名の 「小伝」 から引用しました。近日中に、300余名の 「小伝」 を公開する予定です。ご期待ください。