1932年(昭和7年)5月15日、海軍の若い将校たちが、政党や財閥をたおして、軍を中心にした国家権力の強い国をうちたてることをくわだて、首相を射殺する事件が起こりました。昭和史に残る五・一五事件です。
犬養毅(いぬかい つよし) は、このときの首相です。明治時代が始まる13年まえに備中国(岡山県)で生まれ、13歳のときに父を亡くした毅は、郷里ではたらきながら漢学を学んだのち、20歳の年に、新しい西洋の学問を勉強するこころざしをたてて東京へでました。そして、新聞記者で学費をかせぎながら慶応義塾で学びました。
1882年、大隈重信が民主主義の政治をめざして立憲改進党を結成すると、毅も、この党に加わって政治家の道へ入りました。
明治に入ってからの国の政治は藩閥政治とよばれ、明治維新に力をつくした長州藩や薩摩藩などの出身者を中心にして進められていましたが、毅は新しい政治は藩閥ではなく、同じ考えをもつ新しい政治家たちが集まってつくった政党によっておこなわれなければいけないと考え、政党政治家をめざしたのです。
1890年の第1回衆議院総選挙いらい衆議院議員に17回連続当選をはたした毅は、意志が強く話術にすぐれた政治家として活やくし、43歳のとき、大隈内閣の文部大臣となりました。
1910年には、自分が中心になって立憲国民党をつくり、党の先頭に立って、憲法にもとづく政治を進めるために藩閥打倒をとなえました。また、1922年には、立憲国民党を解散して新たに革新倶楽部を結成し、憲政の神さまといわれた尾崎行雄といっしょに、選挙権の平等を求める普通選挙運動に力をつくしました。
藩閥打倒は1924年の加藤高明を首相とした政党内閣の成立によって、普通選挙運動はその次の年の普通選挙法の公布によって、それぞれ実現しました。しかし、毅は、このとき逓信大臣をつとめることはできましたが、革新倶楽部の力が弱かったため政府内で大きな勢力をもつことができず、1925年に政界をしりぞきました。
ところが、6年のちの1931年、犬養内閣を組織して政界へ返り咲きました。革新倶楽部と1つになっていた政友会の総裁に推され、ふたたび理想の立憲政治をめざしたのです。でも内閣をスタートしてわずか5か月ごに、暗殺されてしまいました。毅は、国民の代表として国民のための政治をきずこうとした政治家でした。青年将校にピストルを向けられたとき 「話せばわかる。話を聞こう」 と将校をさとしたことばは有名です。
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中) 33巻「牧野富太郎・豊田佐吉」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。