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交響曲の父・ハイドン

今日3月31日は、ソナタ形式の確立者として、モーツァルトやベートーベンに大きな影響力を与え、104もの交響曲を作ったことで知られる古典派初期の作曲家ハイドンが、1732年に生まれた日です。

作曲家ハイドンのふるさとは、オーストリア東部のローラウという村で、むかしから歌や踊りのさかんな地方です。ハイドンは、音楽的な環境にめぐまれて育ちました。本格的に音楽の修行にうちこみはじめたのは、6歳ごろからです。まず、ハインブルクの音楽教師について、2年ほどきびしい指導をうけました。8歳になるとウィーンへでて、シュテファン聖堂の少年合唱団にはいりました。

合唱団員としてのハイドンは、ボーイソプラノで、しばしば独唱者をつとめるなど、人びとの注目をあつめていました。しかし、17歳になると声変わりで歌えなくなり、合唱団を去らなければなりませんでした。

家が貧しかったので帰ることもできず、ハイドンは途方に暮れました。屋根裏を借りて、そこで音楽教師をしたり、流しのバイオリンひきになったり、各地をてんてんとしながら生活をささえました。ハイドンは、そのあいまに作曲をてがけ、かずかずの交響曲や4重奏曲を生みだして、作曲家としての才能をあらわしていきました。

1761年、名門貴族エステルハージ家の管弦楽団副学長になりました。やがて第1指揮者となり、新曲をつくってはエステルハージ公にささげるという生活を、約30年間つづけました。

楽員たちが長時間の演奏につかれてしまったある夜、ハイドンは新しい交響曲の指揮をはじめました。曲は、最後に近づくにつれてゆっくりとなり、楽器の奏者が、一人、また一人、自分のまえのろうそくを消して舞台を去っていくのです。そしてとうとう、1本のろうそくのまえのバイオリン奏者とハイドンだけになり、曲は終わります。それぞれの楽器が、しだいに演奏をやめてしまうめずらしい技法の『告別』という曲です。人びとは盛大な拍手をおくりました。エステルハージ公は、楽員が毎日の演奏につかれはてていることを思いやった意味に気づき、2週間の休みをあたえたということです。

ハイドンは、100以上の交響曲と80曲もの弦楽4重奏曲をのこしました。『天地創造』『四季』などの名曲は、ハイドンの代表作です。古典音楽のうえでソナタ形式をうちたてたことも、ハイドンの功績としてたたえられます。

1809年5月、ハイドンは、ウィーンに攻めいるフランス軍の砲声をききながら、世を去りました。ハイドンが亡くなったことがつたわると、オーストリア軍もフランス軍も、戦いを中断して、偉大な作曲家の死をいたみました。

ハイドンのやや詳しい生涯は、いずみ書房のホームページ・オンラインブックスに最近公開しました「レディバードブックス100点セット」の中の84巻「大作曲家2」に、ヘンデル、シューベルトと共に紹介されていますので、参考にしてください。なお、83巻「大作曲家1」には、バッハ、モーツァルト、ベートーベンが取り上げられています。

投稿日:2008年03月31日(月) 09:54

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)