今日3月21日は、宗教的なお祈りや日ごろのなぐさめ程度だった音楽を、人の心を豊かに表現する芸術として高めたバッハが、1685年に生まれた日です。バッハの音楽は、やがてハイドンやモーツァルト、ベートーヘンらに引きつがれていったのです。
バッハは、ドイツのアイゼナハという町に、なん代もつづく音楽家の家に生まれ、幼いころから、自分も音楽の道へ進むことを心に決めていました。
9歳のときに母を亡くし、つぎの年には父も失ってしまいました。でも、幸いなことにオルガン奏者だった兄にひきとられたので、音楽の勉強をつづけることができました。兄は、オルガンのひきかたも、作曲も教えてくれました。ところが、才能のあるバッハは、教えてもらうだけではものたりません。兄がたいせつにしまっている楽譜を夜なかに、こっそり取りだして、窓からさしこむ月の光ですっかりうつしとり、むずかしい曲を自分の力で学びました。
「自由に、もっといろいろな音楽を学びたい」
15歳のとき、兄の家をでて、よその町の教会の聖歌隊員になり、高等学校へかよいながら、広い音楽の世界へとびこんでいきました。音楽会があると聞けば、食事も馬車に乗るのもけんやくして、一日じゅう歩いて遠くの町へでかけました。新しい音楽を学ぶことができれば、腹がすくことや足がいたいのをがまんするくらい、なんでもないことでした。
18歳で、宮廷にバイオリン奏者として招かれ、つづいて教会のオルガン奏者になり、このころから、作曲にも、すぐれた才能をみせるようになりました。そして、23歳になると、こんどはオルガン奏者として、ふたたび宮廷にむかえられて、神へのいのりをこめたオルガン曲をつぎつぎに作り、オルガン奏者バッハ、作曲家バッハの名は、しだいに国じゅうに広まりました。
そのご、宮廷交響楽団の楽長から、やがては大都市ライプチヒの聖トマス教会合唱長になり、そのあいだに、さらに『ブランデンブルク協奏曲』『バイオリン協奏曲』などの合奏曲のほか、十字架にはりつけにされたキリストにささげる受難曲や、教会でうたう声楽曲を、数おおく作曲しました。
バッハは、それまでは神へのいのりのために作られていた教会の音楽を、芸術の香り高い音楽へひきあげました。それはバロック音楽とよばれています。そして、人間の悲しみや喜びを、音楽のなかで表現しました。
バッハは晩年、目が見えなくなってしまい、不自由な生活をつづけて、65歳でこの世を去りました。死後、バッハの音楽はほとんど忘れられてしまいましたが、半世紀もたってふたたびその価値がみとめられました。いまでは西洋音楽の土台を築いた作曲家として音楽の父とたたえられています。
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。