今から72年前の1936年2月26日、大雪の日の東京は、恐怖と不安に包まれた日となりました。若い青年将校たち20余名は1400名もの兵士を率い、「昭和維新を実現させよう」と、国会議事堂を中心とする日本の政治の重要個所を占領してしまったのです。この事件は、2月26日に行なわれたため、2・26事件とよばれています。
この事件がおこる5年ほど前の1931年、柳条湖事件をきっかけに満州事変がおこり、日本は満州全土を制圧。そして溥儀を執政とする満州国を建国しました。これに中国が抗議して満州を中国に返すべきと国際連盟に提訴、これが受け入れられたことから日本は1933年に国際連盟を脱退しました。(正式脱退は1935年) こうして、日本は国際的に孤立の道を歩みはじめていったのです。
そのころ、日本の政治を動かしていたのは、軍部や新しく大きくなった新興財閥といわれる人たちで、新興財閥は、中国を侵略して利益をあげようと思っていました。第1次世界大戦後の激動する世界情勢に直面して、高度の国防国家を作り上げなくてはならないという使命感にかられていた軍部内では、皇道派と統制派の二つの勢力にわかれていました。皇道派ははやく侵略をすすめ、軍部独裁による国防国家をつくろうとする考え方をする人たち。統制派は、それを合法的に少しずつ変えていこうとする人たちのグループでした。
2・26事件は、皇道派の若い将校が中心となっておこした事件で、皇道派の荒木・真崎両陸軍大将をおしたてようと、統制派の中心人物の渡辺教育総監をはじめ斉藤内大臣や高橋大蔵大臣ら、政府の要人を暗殺したり重傷を負わせたのです。
軍部は、この事件をどう扱うかでもめにもめました。結局、青年将校たちは「反乱軍」とみとめられ、討伐軍となった陸軍部隊が反乱軍をとりかこみ、降伏するようによびかけがおこなわれ、4日後の29日に反乱軍は降伏しました。
事件をおこした青年将校たちは、のちに死刑になったり重い処分をされましたが、皮肉なことにそののちの日本は、皇道派が握ることになり、軍部の力で国を動かし、中国を侵略し、太平洋戦争へとまっしぐらに進んでいってしまったのです。