今日12月3日は、カトリックのイエズス会士で、日本に初めてキリスト教を伝えたザビエルが、1552年に亡くなった日です。
前回のブログ「マラッカひとり旅」で触れましたが、マラッカにいた日本人のヤジロウは、スペインの宣教師フランシスコ・ザビエルの弟子になり、やがて、信仰の喜びを日本人にも伝えたいと思うようになりました。そして、ヤジロウが案内役になって、1549年の夏、日本にはじめてキリスト教を伝えるために、43歳のザビエルは鹿児島に上陸しました。
鹿児島の領主島津貴久のゆるしをもらったザビエルは、福昌寺という寺の境内で、キリスト教の教えを説きはじめました。しかし、キリスト教の伝道が、貴久に大歓迎されたのではありませんでした。ザビエルを領地にとどめておけば、やがて鹿児島の港に外国の貿易船が現れるようになり、鉄砲や火薬を手に入れることができる、という貴久の考えに、半ばは利用されたのです。でも、数か月のうちには、100人ほどの人びとが、キリスト教を信仰するようになりました。
ところが、1年ご、鹿児島をにげださなければなりませんでした。仏教の僧や信者たちから、はげしく反対されるようになってしまったのです。
「日本じゅうにキリスト教を広めるために、天皇のゆるしをもらおう」と考えたザビエルは、肥前(長崎県)筑前(福岡県)周防(山口県)などで伝道をつづけながら、京都へむかいました。しかし、望みを果たすことはできませんでした。天皇は、武士の力におさえられて、権威を失っていたからです。
ザビエルは、しかたなく西へ下りました。この京都までの往復の旅は、とても口では表せないほど苦しいものでした。キリスト教を口にすれば石を投げられ、賛美歌をうたえば道を追われたということです。
そのごのザビエルは、周防、豊後(大分県)の領主にゆるされて伝道をつづけました。でも、思うようにキリスト教を広めることはできず、わずか2年で、日本を去らなければなりませんでした。そして、日本をはなれたつぎの年、中国への伝道にむかう途中に、46歳の生涯を閉じてしまいました。
ザビエルが亡くなる約20年まえから、ヨーロッパでは、カトリック教会の教えや規律がみだれ、べつの教会(プロテスタント)をおこす人びとも現れて、新しいキリスト教を広めるための宗教改革がはじまっていました。
フランスとスペインとの国ざかいにナバラ王国(1512年にスペインにほろぼされた)に生まれたザビエルは、この宗教改革の最中に大学に学んでカトリック教徒として生きるようになり、やがて伝道の使命をになって日本へ渡ってきたのです。ザビエルが、生涯のうちに伝道して歩いた道のりは、8万キロメートルをこえるといわれています。
以上の文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)23巻「足利尊氏・一休・雪舟」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。