今日11月19日は、江戸時代後期の俳人で、子どもや動物、自然を愛して素朴な歌を読み続けた小林一茶が1827年に亡くなった日です。
一茶は、1763年に信濃の国(今の長野県)北部の寒村柏原に、やや大きな農家に生まれました。父親は馬を使った運送業もしていました。
3歳の時に母親が死に、一茶は祖母の手で育てられました。8歳の時に2度目の母親が来ましたが、このまま母と一茶は折り合いが悪く、冷たい仕打ちをうけたため、しだいにひねくれていきました。まもなく、弟が生まれてからは、一茶は子守りから家の用事、父の運送の仕事まで手伝い、こきつかわれて、休むひまもありませんでした。
13歳の時、なにくれと一茶をかばってくれた祖母が死んでしまいました。よく年、一茶は口べらしのため、江戸に奉公に出されます。それから10年もの間に、たいへんな苦労をしたと思われます。武士や町人の使用人、物売り、荷運び人足などをしながら働くうちに、俳句を学ぶようになりました。
その生涯は、苦難の連続といってよいほど不幸つづきでした。詳しくは、いずみ書房のオンラインブック「せかい伝記図書館」第23巻目に、全文を公開していますので、ぜひご覧ください。
江戸時代の3大俳人といえば、松尾芭蕉、与謝蕪村と、小林一茶があげられますが、作った俳句の数は、芭蕉の1000句、蕪村の3000句に対し、一茶は30000句近くもあるといわれ、まさに傑出しています。そして、一茶ほど、ありふれた日常生活やその心情を、ありのままに句にした俳人は他にいません。この点250年近くもたった「今も生きている」といえるでしょう。
そのいくつかを、以下にかかげてみることにしましょう。
われと来て 遊べや 親のない雀
やせ蛙 負けるな一茶 ここにあり
雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る
ままっこや 涼み仕事に わらたたく
美しや 障子の穴の 天の川
名月を 取ってくれろと 泣く子かな
信濃では 月と仏と おらが春
たらいから たらいにうつる ちんぷんかん
これがまあ ついの住み家か 雪五尺