今日10月17日は、ピアノの形式、メロディ、和声法など、これまでにない表現方法を切り開いた作曲家ショパンが、1849年になくなった日です。
ピアノの詩人とたたえられるフレデリック・ショパンは、ポーランドの首都ワルシャワの近くで1810年に生まれました。父も母も、音楽を愛する人でした。
ショパンは、4歳のころからピアノをたたきはじめました。
7歳で作曲の才能を示し、8歳でピアノ演奏会を開き、天才少年とよばれるようになった中学生時代には、とうぜん、音楽家として生きていくことを心に決めていました。
20歳のとき、祖国をあとにしました。このころ初恋にやぶれたショパンは、失恋の悲しみをのりこえて偉大な音楽家への道をつき進むために、心のつばさを広げたのです。
「祖国を思いだしながら、がんばってくれたまえ」
馬車にゆられるショパンの手には、ふるさとの人びとからおくられた、祖国の土をつめた銀のカップが、しっかり、にぎられていました。
1831年の9月、ショパンは、ヨーロッパ文化の花が咲きみだれるパリで、新しい生活を始めました。初めは、祖国のことを思わない日はないほど孤独でした。ポーランドからでてきたいなかものの青年など、だれも相手にしてくれなかったからです。
でも、作曲家、ピアニスト、文学者、画家たちと交わるうちに、しだいに、ピアノの詩人と、みとめられるようになりました。そして、パリ生活2年めに開いた演奏会で、ピアニストショパン、作曲家ショパンの名は、パリの人びとにすっかり愛されるようになりました。
栄光につつまれたショパンは、パリを第2のふるさとにして、活やくをつづけました。演奏よりも作曲に力を入れ、夢のようにやさしいノクターン、優雅なワルツ、おごそかで美しいポロネーズ、情熱にあふれるマズルカなど、さまざまな種類の曲を次つぎに生みだしていきました。ポロネーズも、マズルカも、ポーランドの舞曲です。パリの空の下にいても、ショパンの胸には祖国への愛が、いつも燃えていたのです。
パリへきてからも恋をしました。しかし、婚約までした女性とも、また9年も交際した女性とも、むすばれませんでした。
結核におかされていたショパンのからだは、30歳をすぎたころから少しずつ衰えていきました。そして、1848年にロンドンで大成功をおさめた演奏旅行を最後にたおれ、つぎの年、ろうそくの火が燃えつきるようにして、39歳の短い生涯を閉じました。パリにほうむられようとするショパンの遺体にふりかけられたのは、銀のカップの中のポーランドの土でした。
この文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)10巻「リンカーン・ダーウィン・リビングストン」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。
なお、ショパンの名は、音楽コンクールの草分けでもあり、若いピアニストの登竜門ともなっている「ショパン国際ピアノコンクール」に燦然と遺されています。ショパンの故郷ワルシャワでほぼ5年に1度、ショパンの命日の前後に開かれ、1927年から2005年まで、すでに15回開催されてきました。世界的な大イベントとしていつまでも続くことでしょう。