今日10月1日は、フランス革命の精神的導きをしたことで名高いルソーらに学び、自由民権思想を広めた明治期の思想家・中江兆民が、1847年に生まれた日です。
明治時代にわきおこった自由民権運動の、理論の面での指導者としてあおがれたのが、中江兆民です。
兆民は、江戸時代の終わりころ、土佐藩(高知県)の下級武士の家に生まれました。幼いときから学問をこころざし、19歳のころには藩の留学生として長崎へ行き、フランス語を学びました。さらに2年ごには、江戸や横浜でフランス語を学んで、フランス公使の通訳をするまでになりました。まもなく、明治政府が誕生し、政府が西洋へ留学生を送ることになると、政府の実力者のひとり、大久保利通に直接交渉して、留学生になりました。1871年(明治4年)24歳のときのことです。
およそ3年におよぶフランス留学で、思想家ルソーのとなえた民主主義の考え方を心にきざんだ兆民は、帰国して仏学塾を開きました。やがて、フランスで知り合った西園寺公望とともに『東洋自由新聞』を創刊して、自由と権利を守ることが、どんなにたいせつであるかを訴えました。そして、1882年(明治15年)にルソーの『民約論』をほん訳して、自由民権運動を進める人びとに指導者とあおがれ、東洋のルソーとよばれるようになったのです。
兆民は、次つぎと政府の政策を批判する文章を書き、国民のことを考えない政治のあり方に反対しつづけました。しかし、40歳のとき、政府ににらまれて東京を追放されてしまいます。大阪へ行った兆民は『東雲新聞』を創刊して、くじけることなく言論を武器にして政府と闘いました。
1890年(明治23年)におこなわれた第1回の衆議院選挙に立候補した兆民は、ほとんど金を使わずに当選しました。ところが、議会が開かれると、政府を批判すべきはずの野党の人たちが、政府に買収されているのをまのあたりにしました。胸のなかがはげしい怒りでいっぱいになった兆民は、きたない政治の世界に失望して議員をやめてしまいました。そのご、理想とする政党をつくるために、実業家となって資金を得ようとしましたが、ことごとく失敗してしまいました。
1901年、医師からがんにおかされており1年半しか生きられないと告げられた兆民は、最後の気力をふりしぼって、『一年有半』『続一年有半』を遺書のつもりで書き、その年に静かに息をひきとりました。高い理想を掲げ、著作活動によって日本の近代化に貢献した兆民でしたが、印ばんてんに腹がけ、ももひき姿で講演したり、夏の暑い日に井戸の中に鍋でつるしたかごに入って読書するなど、奇行の人でもありました。
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)32巻「伊藤博文・田中正造・北里柴三郎」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。