今日8月6日は、人類史上はじめて、原子爆弾が実戦使用された「悲しみの日」です。
太平洋戦争末期(62年前)の1945年8月6日午前8時すぎ、アメリカの爆撃機B29「エノラ・ゲイ」が広島市の上空にあらわれました。市の中心の上空にきたとき、爆撃機は、小型の落下傘を投下し、飛び去っていきました。そのすぐあと、8時15分、巨大な火の玉が炸裂し、ピカッ、ドーンと、天地をゆるがす大爆発がおこりました。
これこそ、人類に落とされたさいしょの原子爆弾でした。このたった1発で、広島市内は地獄の惨禍の中に陥れられました。爆心地から半径500m以内の人々はほとんどが即死、2km以内の建物は全壊、爆発とそののちの火災で、市内95000戸の9割が灰となりました。市民およそ31万人のうち、罹災者は17万人をこえ、死者および行方不明者92000人以上、重軽傷者123000人以上と、日本占領軍アメリカ総司令部は翌年発表しましたが、じっさいの死者は1945末までに14万人をこえていたといわれます。1950年、広島市役所の発表によりますと、死者は推定24万7000人、原爆症患者をはじめ被害者の数は、これを大きく上回るということです。その後も毎年、原爆病患者が数十人ずつ死んでいますから、その被害の大きさといい、残酷さといい、かつて人類の体験したどんな卑劣さにもおよばないものでした。
翌日、アメリカのトルーマン大統領はラジオで「広島に投下したのは原子爆弾であること、日本が降伏に応じないなら、さらに第2弾の原爆を加える」といいました。しかし、日本の軍部は、これが恐ろしい原爆であることを国民に隠し、「投下されたのは新型爆弾であり、相当の被害はあったが、おそれることはない」と発表しました。そして、相変わらず、アメリカ軍を本土に迎え撃つと、強がりをいいました。
その結果、アメリカは8月9日に、原爆の第2弾を長崎市へ落としたのです。私たちは、この事実を永久にわすれてはなりません。