今日8月2日は、江戸時代の前期に民衆芸術としての浮世絵を創始した画家・菱川師宣が、1694年に亡くなった日です。
江戸時代に、町の人びとのすがたや生活のようすをえがいた、浮世絵とよばれる日本画が発達しました。菱川師宣は、その浮世絵を世に広めた、江戸時代初めのころの画家です。
1618年ころ、安房国(千葉県)で生まれた師宣は、少年時代は、父の仕事を手つだって刺しゅうの下絵をかいていましたが、やがて画家をこころざして江戸へでました。
江戸で、だれに絵を習ったのか、それはわかりません。自分の力だけで修行したのかもしれません。しかし、とにかく狩野派、土佐派の日本画や、日本のむかしからの大和絵、それに中国から伝わってきた漢画などを学び、40歳をすぎたころには、師宣しかえがけない浮世絵の世界をきずきあげていました。
狩野派や土佐派の絵は、武士や貴族たちによろこばれるものでしたが、師宣がめざしたのは、町人を楽しませるための絵でした。だから、えがくものも、遊び場の女、歌舞伎の役者、町ではたらく人びとなど、町人の社会で見かけるものがほとんどでした。なかでも美人画にすぐれ、道を行く女が、ふと、ふりかえったすがたをえがいた『見返り美人』は、日本に残る浮世絵の最高けっ作のひとつとして、たたえられています。
師宣は、初めは『仮名草子』とよばれた読みものの本のさし絵として浮世絵をかき、つぎには、どのページにも絵を大きく入れた絵本の浮世絵、さらにそのつぎには、本をはなれて1枚ずつの浮世絵をえがくようになりました。このほか、巻物、びょうぶ、掛物などにも筆をはしらせましたが、師宣をさらに有名にしたのは、いろいろなものにえがいたことよりも、浮世絵を版画にすることを考えだしたことです。
そのころまでの浮世絵は、ほとんどが1枚1枚えがいた肉筆のものでした。そのため数が少ないうえに、ねだんが高く、町人たちは、なかなか手に入れることができませんでした。そこで師宣は、1枚の絵を版画にしてなん枚も刷り、町人たちも、安いねだんで求められるようにしたのです。
版画によって浮世絵が広まると、師宣をしたって集まる絵師がおおくなり、やがては、菱川派とよばれる、浮世絵の大きな流派が生まれました。そして、菱川派は、さらにいくつもの流派に分かれて栄え、浮世絵を、すぐれた日本画のひとつへ発展させていきました。
師宣は、1694年に亡くなりました。76歳くらいだったろうといわれています。師宣がいなければ、のちの喜多川歌麿や葛飾北斎などの大浮世絵師も、生まれなかったかもしれません。
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)26巻「新井白石・徳川吉宗・平賀源内」の後半に収録されている7名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。