ルソーは、常識にとらわれず、独自の見方で人間をとらえました。理性とか知識より、心の奥にひそむ自然な感情をたいせつにして、社会を見直そうとしました。不平等な社会のしくみを批判し、自由のある民主的な国づくりを説いて、フランス革命の導きとなった人です。
ジャン・ジャック・ルソーは、スイスのジュネーブで生まれました。ところが、数日ごに母親は死んでしまいました。しかも、悪いことには時計職人だった無気力な父が、そのうちルソーを置き去りにして、出ていってしまいました。学校にも通えないルソーは、教会の寄宿舎に住みこんだり、彫刻師のところに徒弟奉公をしたりという不幸な少年時代をすごしました。
愛情のない、いじめられどおしの生活がつづき、ルソーはすっかりいじけてしまいました。暗くじめじめした毎日ですが、読書だけは熱心でした。いつも黙りこくって、一人で本ばかり読んでいました。彫刻師のもとで生活していたルソーは、労働をきびしく強制される毎日にたえられず、逃げ出しました。すさんだ気持ちであちこちの土地を放浪しました。
身も心も不安定なまま、わたり歩く孤独なルソーに、あるとき一人の女性が救いをもたらしました。バラン夫人という、いつもほほえんでいる静かな話しぶりの人です。愛を知らずに育ったルソーを母親のように、暖かくはぐくみました。深い教養をもつバラン夫人と暮らし始めたルソーは、哲学や歴史、語学、音楽など幅広い知識を身につけました。
約10年間の共同生活ののち、ルソーはパリへ行きました。社交界に加わり、名の知れた学者や文化人と交際しましたが、少しもなじめませんでした。ある時は、政治の世界で世に出ようとしましたが、失敗に終わりました。何をやってもうまくいかないルソーは、だんだんみじめな気持ちになっていきます。
しかし、論文の懸賞に『学問芸術論』を提出したところ、思いがけず第1位に選ばれました。文明を批判し、自然を尊ぶ精神に、おおくの人が関心をもち、たちまち評判になりました。ルソーは、自分の考えを発展させて、『社会契約論』(民約論)や『エミール』のすぐれた作品を発表しました。政治や文明をするどく追究し、自由で平等な社会づくりを論じています。人間性をとり戻すために、新しい社会制度や教育のあり方を主張し、ルソーはますます世に知られるようになりました。でも、古い考え方の権力者たちににらまれて、不運な晩年を過しました。ルソーの業績はさまざまな方面に影響を与えました。
なおこの文は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで「伝記」を公開中)6巻「ニュートン・フランクリン」の後半に収録されている14名の「小伝」から引用しました。近日中に、300余名の「小伝」を公開する予定です。ご期待ください。
ルソーの考え方は、明治の思想家中江兆民らによって日本に広く紹介されました。細菌学者・野口英世は、ルソーの「忍耐は苦いが、その実は甘い」という言葉が気に入り、いつも口にしていたということです。