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「東欧の異端児」 チャウシェスク

今日12月25日は、1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の独裁者として君臨するものの、「ルーマニア革命」により夫人とともに銃殺されたチャウシェスク大統領が、1989年に亡くなった日です。

1918年、ルーマニア王国オルト県スコルニチェシティの貧しい農家に、10人兄弟の3男として生まれたニコラエ・チャウシェスクは、11歳のとき、工場で働くために首都のブカレストに移りました。

1932年、当時は非合法組織だったルーマニア共産党に入党し、青年共産同盟の地方書記に就任しました。翌1933年に逮捕され、1934年にも鉄道職員試験に嘆願抗議する署名運動を扇動したことで再逮捕されて2年半投獄されました。出所と同時に青年共産同盟中央の書記になるいっぽう、ブカレスト経済専門学校に学びました。1940年からまた投獄されましたが、1943年にはトゥルグ・ジウの強制収容所に移されたとき、獄中でゲオルギュ・デジらとあって連帯感を育てました。1944年の反枢軸クーデターのあとに出獄します。

1945年5月、第二次世界大戦の敗戦によってルーマニア王国は崩壊し、1947年にルーマニア人民共和国が成立して共産党が権力を握ると、チャウシェスクは、ゲオルギュ・デジの下で国防次官を務め、翌1948年に党中央委員となりました。1952年には党中央委組織局長を務め、基盤をさらに固めると、デジにその精力と組織能力を買われて1954年に正式に政治局の一員となり、党内の序列2位に昇りました。1955年に政治局員に選任され、1965年のデジの死後は、47歳の若さで党第一書記に就任し、デジが開始した自主路線をさらに発展させました。

チャウシェスクの統治は、権限の集中が特徴的で、1967年に国家評議会議長となって、統一戦線、国防、経済、イデオロギーなどの最高機関の議長を兼務し、1974年に大統領制導入とともに初代大統領となりました。こうして、1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の頂点に立つ独裁的権力者として君臨し、その間1960年代後半から70年代にかけては、チェコスロバキアの「プラハの春」自由化運動の際らには軍事介入に参加せず、ソ連を激しく糾弾するなど、東欧社会主義圏にあってソ連と距離を置いた自主的な外交政策を展開し、国際政治のカギを握る人物・東欧の異端児として注目され、西側マスメディアでは、スター的な存在でした。

ところが、1980年代に入ると、食糧と電力の深刻な不足が国民生活をおびやかしはじめ、労働者の抗議デモがおきて、国民の怒りが高まるいっぽうとなりました。1989年4月、チャウシェスクは、国土開発計画に着手しました。この計画は村落の破壊と村民の強制移住につながるもので、とくにトランシルバニア地帯に居住するハンガリー系少数民族200万の伝統的生活文化を奪うものでした。

やがて反体制派のハンガリー人牧師の国外強制退去が執行される12月16日、ティミショアラ市民は、逮捕にきた警官隊から牧師を守り、翌日1万人の市民と警官隊が衝突、数百人の死傷者を出しました。抗議デモはトランシルバニア一帯に拡がり、憂慮したチャウシェスクはイラン訪問から急遽帰国、21日にブカレストで政府主催の集会が10万人の市民を前に開かれました。大統領の演説が始まると、群衆のなかから「チャウシェスクを倒せ」「ルーマニア人よ、目覚めよ」との声が巻きあがり、狼狽した大統領が絶句して立ち往生しました。ここで世界にも発信されたテレビ放送は中断され、デモ隊が大統領官邸や党本部を襲い、治安警察が激しい銃撃を加えました。

翌日、政府は非常事態宣言を行うものの、ルーマニア軍は革命側につき、イリエスクを議長とする「救国戦線評議会」によって新政権が樹立されました(ルーマニア革命)。国外逃亡をはかったチャウシェスクは、失敗して逮捕されました。12月25日、特別軍事法廷で1時間足らずの裁判で死刑を言い渡されると、ただちに夫人とともに銃殺されました。翌26日に、裁判と処刑の模様が世界に向けて放映されたため、むごたらしい最期が映しだされました。しかし、異常ともいえる大統領の独裁政治の実態は、解明されないまま、永遠に闇の中に葬りさられてしまったのでした。

「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝 (シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1642年 ニュートン誕生…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが生まれました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇死去…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇が亡くなり、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

1928年 小山内薫死去…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が亡くなりました。

1977年 チャップリン死去…イギリスに生まれ、アメリカで映画俳優・監督・脚本家・プロデューサーとして活躍したチャップリンが亡くなりました。


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本年のご愛読をありがとうございました。
新年は、元旦にごあいさつをいたし、5日からスタートする予定です。
皆さま、よいお年を !
投稿日:2015年12月26日(土) 05:25

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)