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「忠臣蔵の悪役」 吉良義央

今日12月15日は、領民から名君として評価されるものの、赤穂浪士に仇討ちされた吉良義央(きら よしなか)が、1702年に亡くなった日です。義央は、「吉良上野介」としても知られています。

1641年、江戸幕府の旗本で、今の愛知県吉良町にあった4200石の領主吉良義冬の嫡男として、江戸鍛冶橋の吉良邸で生まれた吉良義央(幼名・三郎)は、父が「高家(こうけ)」という、幕府の儀式や勅使(朝廷の使い)の接待を司る重職を兼ねていました。そのため、父のあとつぎになるように育てられ、1657年に上野介に任じられ、1668年に父の後を受け、高家となり、肝煎り(筆頭)となりました。

義央は、領主としては黄金堤の築堤、饗庭(あえば)塩の製造、新田の開発など、領民から名君として評価される存在でした。高家としては、24回にもわたる朝廷への使いや、将軍の名代や伊勢や日光への代参をつとめたり、諸儀式の礼典をまかせられた諸大名に、有職故実の指導をおこなうなど、高家御曹司としての才覚をいかんなく発揮しました。

やがて年齢を重ねるうち、将軍家や紀州家などと縁続きとなって傲慢な態度をとるようになったのでしょう。1701年3月、京都から勅使が江戸へ下向してくるため、赤穂(兵庫県)藩主の浅野長矩がこの接待役に任命され、高家の義央に指導を受けることになりました。ところが長矩が義央の侮辱をうけ、14日に長矩は江戸城中松の廊下で、義央を刀で傷つけました。そのため長矩は、即日切腹を命じられたばかりか、領地を取り上げられ、同年4月19日には赤穂城の幕府への明け渡しがおこなわれ、赤穂藩士数百人は全員離散の運命をたどることになりました。

そして、1702年の12月14日夜、吉良邸で茶会があるという報を受けた元赤穂藩家老の大石義雄は、46人の元藩士を2隊にわけ、表門と裏門から吉良邸に討ち入りし、翌未明に義央の首をとり、これを芝高輪泉岳寺にある長矩の墓前にすえたのでした。

この赤穂浪士の討ち入りは、1706年に近松門左衛門が『基盤太平記』として赤穂義士・悪役吉良として描かれ、1748年に竹田出雲の『仮名手本忠臣蔵』が生まれると、「忠臣蔵」として有名になり、歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台から、浪曲・講談・映画などを通し、ますます悪人として誇張され、今日に至っているのはよく知られています。

じっさいの義央は、松の廊下で負傷後まもなく辞職を願って許され、1701年8月には呉服橋から本所に転宅し、同年12月に隠居して養子義周が家督を相続しました。しかし義周の赤穂浪士に襲われたときの処置の仕方が「不埒」であるとの理由で信州高島の諏訪家に預けられ、吉良家は断絶しました。また、大石ら赤穂浪士たち46人は、1703年2月4日に自刃を命ぜられ、主君と同じ泉岳寺に、今も葬られています。


「12月15日にあった主なできごと」

1945年 婦人参政権…GHQの指示で、この日の帝国議会は男女同権の新選挙法を可決、翌日公布されました。翌年4月、戦後初の衆議院選挙の結果、日本初の女性議員39名が誕生しました。

1966年 ディズニー死去…アニメキャラクター「ミッキー・マウス」を生みだし、いまや世界的なエンターテイメント企業となったウォルト・ディズニー・カンパニーを創業したディズニーが亡くなりました。
投稿日:2015年12月15日(火) 05:05

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)