児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  「綴り方教育」 の国分一太郎

「綴り方教育」 の国分一太郎

今日2月12日は、『鉄の町の少年』『リンゴ畑の四日間』などを著した児童文学者で、作文教育に力をそそいだ教育実践家の国分一太郎(こくぶん いちたろう)が、1985年に亡くなった日です。

1911年、現在の山形県東根市に床屋の子として生まれた国分一太郎は、1925年に山形県師範学校に入学すると、島木赤彦に傾倒して短歌を作りはじめ、村山俊太郎らと短歌同人誌『にひたま』をつくっています。1930年に卒業後、郷里の小学校に赴任し、文集「がつご(この地方の植物名)」「もんぺ」「もんぺの弟」などを作り、教育実践の報告や作文教育に関する論文を雑誌『綴り方生活』や『北方教育』に投稿すると、その優れた指導法が注目されました。しかし、1937年家業をついでいた弟の急死や、教育法が特高警察ににらまれるなど疲労がたまったことで肺を患い、休職せざるをえませんでした。

1939年に知人の紹介で南支派遣軍報道部に務め、軍が管理する広東のラジオ「子どもの時間」の番組制作にたずさわりました。帰国後にその体験を記した『戦地の子供』が中央公論社から出版され、文部省推薦を受けました。ところが1941年10月、突然逮捕されて身柄を山形警察署にうつされ、特高警察官から治安維持法違反をみとめさせる強引なとり調べをうけました。何か月にもわたって未決監房に入れられた上に裁判は長引き、1943年7月、1934〜37年に行った「生活綴方運動」が治安維持法違反とされ、懲役2年、執行猶予3年の判決を受けたのでした。

戦後は、「日本綴り方の会」(のちの「日本作文の会」)の結成に参加するなど、教育評論家として活躍するいっぽう、1954年に少年長編小説『鉄の町の少年』を出版すると、翌年にこの作品は、第5回児童文学者協会児童文学賞を受賞しました。この作品は次のような内容です。

戦争中に、山形から東京の工場に働きに出てきた6人の少年たちがいました。戦争がおこってまもなくこの工場に組合ができました。組合の必要なことを熱心に説明にまわったのは、兵隊に行くのがいやで、中指を切り落とした島木や、軍隊でひどい目にあわされた人たちでした。その人たちにすすめられて組合に参加した中に、山形から出てきた6人の少年工がいました。この中の一人である勇作は、組合が賃上げのストライキに入ったとき、会社の上役にそそのかされ、ストライキを失敗させるために、友だちや仲間を裏切って倉庫泥棒をやります。その勇作の態度がおかしいと気がついたのは健四郎で、4人の仲間と、給仕の少女美恵子と6人で勇作の行動を見守ります。6人の働きのおかげで倉庫泥棒の罪を会社からおしつけられていた組合は、立ち直ることができました。緊急組合大会の席上、健四郎たちの活動が全組合員に報告されて、工場じゅうに拍手がおこりました。みんなの前に立たされた健四郎は、涙ながらに勇作を許してやってくれと訴えます。人々はその美しい友情に感激し、おなじ立場にたっていた守衛らも許すことに「異議なし」といいました。しかし、彼らをそそのかした上役たちを許すことはできません。組合の委員たちは、重役や労務課長などを呼びにいきます。そのうしろ姿に、組合員たちのはげましの拍手はいつまでも終わりませんでした……。

この他に国分は、リンゴを盗んだ犯人にされる5人の少年たちが団結して疑いをはらす『リンゴ畑の四日間』、『すこし昔のはなし』『しなやかさというたからもの』『ずうずうぺんぺん』『みんなの綴方教室』などを著してします。


「2月12日にあった主なできごと」

1603年 江戸幕府開かれる…1600年の関が原の戦いで勝利して全国を制覇した徳川家康は、この日征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開かれました。

1809年 リンカーン誕生…第16代アメリカ合衆国大統領となり、「奴隷解放の父」と呼ばれたリンカーンが生まれました。

1809年 ダーウィン誕生…生物はみな時間とともに下等なものから高等なものに進化するという「進化論」に、「自然淘汰説」という新しい学説をとなえ、『種の起源』を著したイギリスの博物学者ダーウィンが生まれました。

1912年 清朝の滅亡…中国清朝最期の皇帝である7歳の宣統帝・溥儀(ふぎ)が退位して、初代の太祖から12世297年にわたる清王朝の統治が終わりました。なお、溥儀は20年後、日本軍に満州国皇帝にされ、はかない役割をになわされました。その生涯は1987年公開の映画「ラストエンペラー」に描かれ、第60回アカデミー賞作品賞を受賞しています。

1984年 植村直己消息不明…世界初の5大陸最高峰単独登頂をはたした冒険家の植村直己は、北アメリカ最高峰マッキンリーの初厳冬期登山に成功した翌日、消息を絶ちました。この日は、1941年の誕生日でもありました。

1996年 司馬遼太郎死去…『梟の城』で直木賞を受賞した後、『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など戦国・幕末・明治を扱った作品を数多く遺した作家の司馬遼太郎が亡くなりました。『街道をゆく』など文明批評家としての評価も高いものがあります。
投稿日:2014年02月12日(水) 05:35

 <  前の記事 「人道主義運動」 の安部磯雄  |  トップページ  |  次の記事 『東京オリンピック』 の市川崑  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3267

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)