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「日本海海戦」 と秋山真之

今日2月4日は、日露戦争の勝利に深くかかわった海軍軍人の秋山真之(あきやま さねゆき)が、1918年に亡くなった日です。

1868年、松山藩・下級武士の5男として生まれた秋山真之は、幼少の頃から漢学塾に学ぶとともに、親友の正岡子規と和歌にも親しみました。子規の上京に刺激され、旧制愛媛第一中学を中退し、1883年に3男の兄好古(よしふる)を頼って上京すると、子規と東京・神田に下宿しながら大学予備門(のちの一高、現・東大教養学部)に入学します。子規とともに東京帝大をめざすものの、秋山家の経済的苦境から好古に学費を頼ったことで、真之は海軍兵学校に進学し、文学を志して帝大に進んだ子規と別れました。このとき子規は「君を送りて思ふことあり蚊帳(かや)に泣く」と悲しみの俳句を詠んでいます。

1890年、海軍兵学校を首席で卒業した真之は、海防艦「比叡」に乗艦して実地演習を重ね、1892年に海軍少尉となりました。1894年に始まった日清戦争では通報艦「筑紫」に乗艦して後援活動に参加して水雷術を学び、軍令部諜報課員として中国東北部で活動するなどさまざまな体験をするうち、海軍の派遣留学生に選ばれ、1898年アメリカへ留学しました。ワシントンに滞在して軍事思想家であるアルフレッドに師事して近代米国海軍戦術を学び、1902年には海軍大学校の教官となるなど、日本海軍有数の戦術家に成長していきました。

1904年、朝鮮半島をめぐる日本とロシアとの関係が険悪化して「日露戦争」がはじまると、真之は中佐として連合艦隊司令長官東郷平八郎のもと、第1艦隊旗艦「三笠」に乗艦する作戦担当参謀になります。ロシア海軍旅順艦隊を旅順港に閉塞させる作戦では先任参謀を務め、機雷敷設を行うなど活躍。そして翌年の「日本海海戦」では、世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を対馬沖に待ち伏せし、「皇国の興廃此の一戦にあり」のZ旗を旗艦三笠に掲げ、伊予水軍伝来ともいわれる「丁字戦法」を駆使し、意表をつく敵前旋回を展開、敵艦隊を一方的に撃滅して、戦局の大勢を決しました。この海戦の報告に 「本日天気晴朗なれど波高し」という有名な一句を書きました。「天気晴朗」は濃霧に悩まされていた海軍への不安を取り除き、「波高し」は勝てるという自信を人々に与えたといわれています。この勝利により両国間のポーツマス講和会議への道を開き、当時、世界最大の軍事力を有していたロシア帝国の敗北に、世界じゅうの人々は仰天しました。

その後の真之は、第1次世界大戦では海軍省軍事局長として、朝鮮半島からシベリア鉄道でロシアを経て欧米を視察。1917年に中将となりますが、翌年虫垂炎を悪化させて、海軍きっての戦術家としての生涯を閉じました。

なお秋山真之は、司馬遼太郎が発表した歴史小説『坂の上の雲』で子規とともに主人公になった結果、「日本騎兵の父」といわれ陸軍大将となった兄好古とともに、国民的な知名度を得ることになりました。また、2009年11月29日から2011年12月25日まで3年にわたり年末にNHKで放送されたテレビドラマの特別番組でもよく知られていますが、生前の司馬は、戦争を鼓舞するような誤解を与えたくないと、この小説の映像作品をいっさい拒否していました。


「2月4日にあった主なできごと」

1181年 平清盛死去…平安時代末期の武将で「平氏にあらざれば人にあらず」といわれる時代を築いた平清盛が亡くなりました。

1703年 赤穂浪士の切腹…前年末、「忠臣蔵」として有名な赤穂浪士46名が、吉良義央(よしなか)邸に討ち入り、主君浅野長矩(ながのり)のあだ討ちをしたことに対し、江戸幕府は大石良雄(内蔵助)ら赤穂浪士46名に切腹を命じました。

1945年 ヤルタ会談…第2次世界大戦でドイツの敗戦が決定的になったことで、ソビエトのクリミヤ半島にあるヤルタに、アメリカ合衆国大統領ルーズベルト、イギリス首相チャーチル、ソビエト連邦(ソ連)首相スターリンの3国首脳が集まって、「ヤルタ会談」がはじまりました。
投稿日:2014年02月04日(火) 05:57

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)