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「マリア・ルス号事件」 と副島種臣

今日1月31日は、明治時代初期、外務卿として外交に力をつくした副島種臣(そえじま たねおみ)が、1905年に亡くなった日です。

1828年、佐賀藩士枝吉家の次男として生まれた種臣(通称・二郎)でしたが、長じてから副島家の養子となりました。幼いころから藩校・弘道館の教諭をつとめる父、藩学の指導的な立場にあった兄の影響を強く受けて育ちました。やがて、大隈重信、江藤新平、大木喬任らと尊皇攘夷運動に加わり、1852年に京都に出て、漢学・国学などを学びました。その間にペリーの来航があり、諸藩の浪士と交わるうち幕府の横暴を攻撃するようになって、将軍廃止と天皇政権による統一を進言する意見書を提出しました。しかし、藩主の鍋島直正にたしなめられ、藩校での国学教諭を命じられました。

1864年、藩が長崎に洋学校を設立すると、副島は学監に任命され、大隈と宣教師フルベッキから英語を学ぶとともに、欧米の政治・法律・経済から聖書まで学び、それを活用する機会をねらっていました。1867年には大隈とともに脱藩をはかりましたが、乗船が難破したために捕らえられ、謹慎処分を受けてしまいました。

維新後は明治新政府の参与にむかえられ、1869年には参議となって佐賀を代表する政治家になると、1871年には外務卿(いまの外務大臣)に抜てきされました。翌年「マリア・ルス号事件」がおこりました。横浜に停泊中のペルー船に、230人以上の清国人奴隷が監禁されていることが発覚、維新後間もない政府の参議たちの多くは、国際紛争を恐れて、早く立ち去ってほしいと願っていたのに対し、副島はこの奴隷船の船長を裁判にかけて奴隷を解放しました。ペルーの抗議により外交問題に発展するものの日本の主張が認められ、副島は「正義人道の人」として国際的に支持されました。

また1873年3月には、宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へおもむき、漂流民を殺した台湾や、外交関係を拒絶する韓国問題に対し、日本が自由に行動できることを清に認めさせています。ただし、琉球(沖縄)帰属問題に関しては、清が日本帰属を認めなかったために、日清戦争まで外交問題として残されました。

ところが、同年秋におこった「征韓論争」では、朝鮮の開国を主張する西郷隆盛に賛成したことで、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らの内治派に敗れて下野し、1874年に板垣退助らと愛国公党に参加し、民撰議院設立建白書を提出しました。ただし、自由民権運動には加わらず、政治の表舞台から遠ざかりました。1879年、宮内省に出仕して一等待講、1887年宮中顧問官、1888年枢密顧問官(天皇の最高位相談役)、1891年枢密院副議長になりました。1892年に松方正義内閣の内務大臣として入閣するものの、3か月で辞職しています。

なお、司馬遼太郎は長編小説『翔ぶが如く』の中で、「明治政府は、優れた経綸家(国家の秩序をととのえ治める人物)を二人しか所有していなかった。一人は西郷、一人は副島」と、副島を高く評価しています。

「1月31日にあった主なできごと」

1797年 シューベルト誕生…『ぼだい樹』『野ばら』『アベ・マリア』など600曲以上もの歌曲や、『未完成交響曲』などの交響曲や室内楽曲、ピアノ曲他を作曲したシューベルトが生まれました。

1947年 ゼネスト中止命令…激しいインフレを背景に生活を脅かされた労働者たちは、共産党の呼びかけで2月1日にゼネスト決行を計画しましたが、マッカーサーGHQ総司令官は、ゼネストは日本経済を破滅においやると、中止を指令しました。

1958年 アメリカ初の人工衛星…前年にソ連に先を越されたアメリカは、初の人工衛星エクスプローラ1号の打ち上げに成功しました。
投稿日:2014年01月31日(金) 05:45

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)