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「芸術は爆発だ」 の岡本太郎

今日1月7日は、パリで抽象美術運動やシュルレアリスム運動と直接関わり、大阪で行われた日本万国博覧会(万博)のシンボルタワー『太陽の塔』や、大作『明日の神話』などの絵画を多く遺し、縄文時代や沖縄のプリミティブ美術を再評価するなど、個性あふれる前衛芸術家・岡本太郎(おかもと たろう)が、1996年に亡くなった日です。

1911年、漫画家の岡本一平と、作家で歌人の岡本かの子のひとり息子として生まれた太郎でしたが、父の放蕩、母の不倫という共に家庭をかえりみない環境の中で幼・少年期を過ごしました。絵がすきだったことで、慶応普通科をへて東京美術学校(現・東京芸術大)へ進学しましたが、そのころ父が朝日新聞の特派員として、ロンドン海軍軍縮会議の取材に行くことになりました。そこで太郎も美術学校を休学、親子三人にかの子の愛人青年二人を加えた5人でヨーロッパにわたりました。

1929年に神戸港を出港した一行は翌年1月にパリに到着、太郎はその後約10年間、ドイツ軍がパリに侵攻する1940年まで、ひとりでパリにとどまりました。芸術への迷いが続いていたころ、ある画廊でピカソの作品を見て強い衝撃を受け、「ピカソを超える」ことを目標に絵画制作に打ちこむようになり、1933年には、国際的な抽象芸術活動をしているアブストラクシオン協会に認められ、22歳で最年少会員となります。そのかたわらソルボンヌ大学で、哲学・社会学・精神病理学・民族学を学び、ブルトンやエルンストらと交遊するうち、抽象主義にあきたらずシュルレアリスムに転向、1937年にはシュールアンデパンダン展に『傷ましき腕』を出品しました。

1940年に帰国すると、『傷ましき腕』など滞欧中の作品を二科展に出品して受賞、個展も開いたりするものの、1942年に徴兵令状を受け取り、中国戦線へ送られました。1945年の日本敗戦により、半年ほど長安で俘りょ生活をおくったのちに帰国しますが、自宅も作品もすべて焼失していました。

やがて二科会に所属して、前衛芸術の推進者の一人として活動を開始すると、『夜明』『森の掟』など、話題作を次々と発表するとともに、新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と宣言をします。東京・青山に自宅兼アトリエを建て生活と制作の拠点にすると、モザイクタイルや陶板を使用した壁画を、劇場や旧東京都庁舎などに制作するかたわら、『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』を著すとベストセラーになりました。1960年代になると、壁画や公共建造物のモニュメント、商業デザインにも力をそそぐいっぽう、縄文土器や、日本の伝統美術などに関する著作活動をおこない、『忘れられた日本・沖縄文化論』は、毎日出版文化賞を受賞しています。

1970年に大阪で万国博覧会が開催されると、巨大なシンボル・タワー『太陽の塔』を制作。強烈な個性を発揮した奇抜な像に、世の中を賛否両論のうずにまきこみましたが、万博は大成功に終わり、1975年に『太陽の塔』は永久保存が決定、今も大阪のシンボルとして愛されつづけています。

1970年代以降は、芸術や著述ばかりでなくテレビにも進出。「芸術は爆発だ」と叫びながら現れる演出が人気をよび、コマーシャルにも使われ、流行語にもなりました。
老いを重ねても旺盛なエネルギーは衰えず、個展など精力的な活動を続けて、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。亡くなった3年後の1999年から川崎市「岡本太郎美術館」として開館しています。

なお、2003年行方不明になっていた大作『明日の神話』がメキシコで発見され、現在は公共アートとして渋谷駅井の頭線前通路に設置され、人々の眼を楽しませています。


「1月7日はこんな日」

「七草がゆ」を食べる日…[せり/なずな(ぺんぺんぐさ)/ごぎょう(ははこぐさ)/はこべら(はこべ)/ほとけのざ(たびらこ)/すずな(かぶ)/すずしろ(だいこん)/春の七草] と歌われる7種類の草を入れたおかゆを食べれば、無病息災という風習です。平安時代以前に中国から伝わったといわれていますが、単なる迷信ではなく、ちょうど正月料理に飽きたころ、冬枯れの季節に青物を補給するという食生活上の効用が指摘されています。


「1月7日にあった主なできごと」

1490年 足利義政死去…室町幕府第8代将軍でありながら政治に興味がなく、11年も続く内乱「応仁の乱」をひきおこすきっかけをこしらえた足利義政が亡くなりました。銀閣寺を建てるなど、東山文化を遺した功績は評価されています。

1835年 前島密誕生…日本の近代郵便制度の創設者で「郵便」「切手」「葉書」という名称を定めた前島密が生まれました。

1868年 征討令…1月3日〜6日の鳥羽・伏見の戦いに勝利した維新政府は、この日江戸城にこもった徳川慶喜に征討令を出し、同時に諸藩に対して上京を命じました。征討軍の総帥は西郷隆盛。同年4月11日、徳川家の謝罪を条件に江戸城・明け渡し(無血開城)が行なわれました。

1932年 スティムソン・ドクトリン…アメリカの国務長官スティムソンは、この日「満州における日本軍の行動は、パリ不戦条約に違反するもので、これによって生ずる一切の状態を承認することはできない」との声明を発し、日本政府を弾劾しました。これが、太平洋戦争に至るアメリカの対日基本方針となりました。

1989年 昭和天皇死去・・・前年から容態が危ぶまれていた昭和天皇が亡くなりました。皇太子明仁親王が天皇に即位し、昭和64年は平成元年となりました。昭和は日本の元号のなかでは最も長い62年と2週間でした。
投稿日:2014年01月07日(火) 05:00

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)