児童英語・図書出版社 創業者のこだわりブログ Top >  今日はこんな日 >  『東海道四谷怪談』 の鶴屋南北

『東海道四谷怪談』 の鶴屋南北

今日11月27日は、江戸時代の文化・文政期に活躍した歌舞伎狂言作家の鶴屋南北(つるや なんぼく)4代目が、1829年に亡くなった日です。

1755年、染物職人の子として江戸日本橋に生まれた鶴屋南北(幼名・勝次郎)は、子どものころから父に連れられて観る芝居が大好きでした。やがて狂言作者を志して、1777年に桜田治助の門に入り、のちに金井三笑、中村重助、増山金八らに師事して、桜田兵藏、沢兵藏、勝俵藏を名のって作品を発表するものの、当時の作者はほとんど役者に従属するものだったため、役者の支持がうけられず、30年近くも下積みのままでした。

1804年、江戸河原崎座の尾上松助に見出され、かれのために書き下ろした『天竺徳兵衛 韓噺(いこくばなし)』は大当たりとなりました。これは、江戸時代前期の商人で探検家だった天竺徳兵衛を主人公に、奇ばつな構想と、早変わりや舞台機構を駆使した変化にとんだ展開は、長い間の修行での蓄積を、いっきに噴出させた作品でした。

翌年には河原崎座で『四天王楓江戸粧』も成功させ、1808年には市村座『彩入御伽草』で怪談物の狂言が人気となると、1811年に四代目鶴屋南北を襲名しました。その後は、松本幸四郎、坂東三津五郎、岩井半四郎という当時の3大スターに、「世話物」という、当代の事件に取材した社会劇で、文化・文政時代の町人生活を生き生きと描写したことで、江戸歌舞伎界の第一人者なっていきました。とくに、代表作『東海道四谷怪談』をはじめ、7変化する『お染久松 色読販(うきなのよみうり)』など、独自の怪談劇を中心に、亡くなるまでに120編もの作品を書いています。

今も、怪談劇の傑作として人気のある『東海道四谷怪談』は、江戸四谷周辺につたわる、いくつかの話をまとめたものを脚色したもので、こんな内容です。

田宮左門の娘・お岩は、夫である伊右衛門の悪事(公金横領)を理由に、実家に連れもどされていました。伊右衛門は左門に、お岩との復縁を迫るものの許しがでません。そこで伊右衛門は、辻斬りに見せかけて、左門を殺害します。その同じ場所には、お岩の妹・お袖に恋していた薬売りの直助が、お袖の夫・与茂七(実は別人)を殺害していました。ちょうどそこへお岩とお袖がやってきて、左門と与茂七の死体を見つけます。なげき悲しむ2人に、伊右衛門と直助は仇をうってやるといいくるめ、伊右衛門とお岩は復縁し、直助とお袖は同居することになります。ところが伊右衛門は、病がちなお岩を、しだいにきらうようになります。
いっぼう、伊右衛門の上役伊藤喜兵衛の孫・お梅は伊右衛門に恋をし、喜兵衛も伊右衛門を婿にしたいと思います。結託したふたりは、あんまをおどしてお岩と不義密通をはたらかせ、それを口実に離縁しようと画策しました。喜兵衛から贈られた薬のために顔が崩れたお岩を見て、おびえたあんまは、伊右衛門の計画をお岩に暴露します。お岩はもだえ苦しみ、置いてあった刀が首に刺さって亡くなります。
伊右衛門は伊藤家の婿に入るものの、婚礼の晩に幽霊を見て錯乱し、お梅と喜兵衛を殺害して逃亡します。お袖はあんまに姉の死を知らされ、仇討ちを条件に直助に身を許しますが、そこへ死んだはずの与茂七が帰ってきます。不貞を働いたということで、お袖は、与茂七、直助ふたりの手にかかって死にます。お袖の最後の言葉から、直助は、お袖が実の妹だったことを知って自害。伊右衛門はお岩の幽霊に苦しめられて狂乱状態のところへ、真相を知った与茂七がやってきて、しゅうとの左門と義姉のお岩を殺した伊右衛門を討つのでした……。


「11月27日にあった主なできごと」

1095年 十字軍の提唱…ローマ教皇ウルバヌス2世は、この日フランス中部クレルモンの宗教会議で、聖地エルサレムをイスラム教徒から奪回するために、聖なる戦いを勧告。これにより、胸に十字の標識をつけた兵士・キリスト教徒が聖地にむけて出発する「十字軍時代」が始まりました。

1769年 賀茂真淵死去…江戸時代中期に活躍した国学者で、本居宣長へ大きな影響を与えた賀茂真淵が亡くなりました。

1894年 松下幸之助誕生…パナソニック(旧松下電器産業)を一代で築き上げた日本屈指の経営者であるとともに、PHP研究所を設立して倫理教育に乗りだ出す一方、松下政経塾を立ち上げて政治家の育成にも意を注いだ松下幸之助が生まれました。

1958年 皇太子婚約発表…皇太子明仁親王(現天皇)と正田美智子さん(現皇后)の婚約がこの日に発表され、美智子さんが民間から出た最初の皇太子妃となることで日本中がわきたち、ミッチーブームがおこりました。

投稿日:2013年11月27日(水) 05:34

 <  前の記事 「自動車の父」 ベンツ  |  トップページ  |  次の記事 初の原子炉を建造したフェルミ  > 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://mt.izumishobo.co.jp/mt-tb.cgi/3218

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

         

2014年08月

          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

月別アーカイブ

 

Mobile

児童英語・図書出版社 社長のこだわりプログmobile ver. http://mt.izumishobo.co.jp/plugins/Mobile/mtm.cgi?b=6

プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)