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「義太夫浄瑠璃」 の竹本義太夫

今日9月10日は、江戸時代の中期の浄瑠璃(じゅうるり)語りで、「義太夫節」を創始した初代・竹本義太夫(たけもとぎだゆう)が、1714年に亡くなった日です。

1651年、大坂天王寺村の農家に生まれた竹本義太夫(幼名・五郎兵衛)は、幼いころから、近所に住む浄瑠璃語りに入門して、本格的にその芸風を学びました。やがて京都に出て、当時人気の宇治・加賀掾(かがのじょう)のもとで浄瑠璃を学び、1677年には、清水五郎兵衛を名乗って、加賀掾のワキ語り(主役の相手役)をして、好評をえました。やがて、加賀掾の弟子たちのあいだに分裂騒ぎがおこったことで、加賀掾と別れ、人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをしました。1680年のころ京にもどり、竹本義太夫と改名して興業しましたが、努力の成果がえられず、ふたたび旅に出ざるをえませんでした。

1684年、大坂にもどった義太夫は、大坂道頓堀に人形芝居の竹本座を興し、その旗あげ公演として、前年近松門左衛門が加賀掾のために書いた『世継曽我(よつぎそが)』を「義太夫節」という新しい浄瑠璃で演じたところ、大評判となりました。これに怒った師匠の加賀掾は、義太夫と芸の対戦をするために道頓堀に宇治座を移し、井原西鶴の『暦』を公演して対抗しましたが、義太夫の人気には遠くおよびません。そのため加賀掾は、西鶴の『凱陣八島』を上演しましたが、義太夫は、初めて近松に執筆を依頼した『出世景清』で対抗したところ、甲乙つけがたい評判となりました。ところが、浄瑠璃界の二大勢力と、二人文豪の対決は、宇治座の突然の出火という珍事により、引き分けに終わりました。こんどは好評をえていた宇治座は京都へもどり、これ以後近松は、竹本座と義太夫のために、100編をこえる作品を書きました。この作品以後、義太夫と近松が提携して上演した作品は「新浄瑠璃」と呼ばれるようになり、この作より以前の「古浄瑠璃」と呼んで区別するほど、強烈なインパクトを浄瑠璃界に与えたのでした。

その後、竹田出雲が竹本座の経営に加わり、義太夫は1698年に、筑後掾の号を受け、竹本筑後掾を名乗りましたが、経営は決してらくではありませんでした。これを救ったのが、1703年に近松の初めての世話物『曽根崎心中』でした。義太夫の語りと人形遣い辰松八郎兵衛の芸が空前の大当たりとなりました。竹本座の経営が安定したのを期に、義太夫は引退を決意し、竹田出雲にその座を譲りました。

現在の文楽にまでつながる、独自の浄瑠璃を確立させた義太夫の功績は、いまも高く評価されています。


「9月10日にあった主なできごと」

1561年 川中島の戦い…戦国時代の武将たちは、京都にせめのぼり、天下に号令することをめざして競いあっていました。甲斐(山梨)の武田信玄と、越後(新潟)の上杉謙信の両武将も、千曲川と犀川の合流地点にある川中島を中心に、いがみあっていました。川中島は穀倉地帯にあり、軍事的にも重要な地点だったため、1553年以来5度にわたって両軍の争奪戦の場となりました。4回目のこの日の戦いがもっとも激しいもので、信玄と謙信両雄の一騎打ちなど、さまざまなエピソードが残されています。結局双方とも、決定的な勝利をおさめることなく終わり、戦国時代は織田信長らの次の展開をむかえることになります。

1951年 「羅生門」グランプリ…黒沢明監督、三船敏郎・京マチ子主演による映画 「羅生門」 が、第12回ベネチア(ベニス)国際映画祭で、金獅子賞グランプリを受賞しました。

1960年 カラーテレビ本放送開始・・・NHK東京および大阪中央放送局、日本テレビ、東京放送、朝日放送、読売テレビが、この日、日本ではじめてカラーによる本放送(一部の番組のみ)を開始しましたが、当時のカラーテレビ受像機は全国でも1000台たらず、多くの人たちはデパートや駅前広場などで見る程度でした。

投稿日:2013年09月10日(火) 05:19

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)