今日2月14日は、『樅ノ木は残った』『赤ひげ診療譚』『青べか物語』などたくさんの長編小説を著した作家・山本周五郎(やまもと しゅうごろう)が、1967年に亡くなった日です。
1903年、現在の山梨県大月市に生れた山本周五郎(本名・清水三十六)は、1907年の大水害で壊滅的被害を受け、一家で横浜に転居し小学校を卒業後に、東京木挽町にあった質店「山本周五郎商店」に徒弟として住み込みました。(文壇で自立するまで、物心両面にわたり支援してもらったことで、この商店主の名をペンネームとしました) 1923年の関東大震災によって山本周五郎商店も被災して解散されたことで、関西に逃れました。翌年、ふたたび上京して帝国興信所(現帝国データバンク)に入社。文書部に配属された後、同社の子会社に転籍しながら、小説を書き続けました。
1926年「文藝春秋」に発表した『須磨寺附近』が認められて、作家活動に専念するようになります。不遇な時代はしばらく続きましたが、少年少女向けの作品を書いたりするうち、しだいに時代小説や推理小説を大衆小説誌に発表する機会が増えてきました。そして、1943年上期の直木賞に『日本婦道記』が推されました。ところが受賞を辞退、「読者から寄せられる [好評] 以外に文学賞はありえない」という信念のもとに、その後「毎日出版文化賞」など数々の賞に選ばれても、すべて受賞を辞退したことはよく知られています。
山本がいちだんと真価を発揮するのは、戦後になってからといってよいでしょう。1958年に代表作となる「伊達騒動」をあつかった長編『樅ノ木は残った』を発表。この作品は、江戸時代初期に伊達藩の家老原田甲斐が、藩の分割をねらう伊達兵部と、それを口実に伊達藩の取りつぶしを図ろうとする幕府の陰謀を、兵部の仲間になったとみせて敵の内部からそれを防ごうとする構成で、甲斐を悪人とする従来の歴史観をいっさい捨てて功臣とし、その悲壮な生涯をいきいきと描いたと高い評価を得ました。
1958年に発表した『赤ひげ診療譚』は、江戸時代中期の小石川養生所を舞台に、長崎で修行した医師保本登と「赤ひげ」 こと新出去定を主人公に、患者との葛藤を描いたヒューマンストーリーで、この作品を原作に、黒澤明監督が1965年に公開した日本映画が大ヒットしたことは、記憶に新しいところです。その他、父をないがしろにした淫蕩な母を殺し、母に関係した男たちを次々に狙ってゆく不義の子の物語『五瓣の椿』(1959年)、自伝的小説『青べか物語』(1960年)、さらに『季節のない街』(1962年)、『さぶ』(1963年)、『ながい坂』(1966年)など代表的長編作を次々と発表していきました。
大衆文学と純文学という区分を嫌い、小説には良い小説と悪い小説しかないというこだわりを生涯持ち続け、人情味あふれる庶民派として人気をかちとり、気品あふれる文学性により、日本近代文学を代表する作家のひとりとして、愛読され続けています。
「2月14日はこんな日」
バレンタインデー…269年のこの日、ローマ皇帝が禁止していた兵士の結婚を、バレンタイン司祭が隠れて結婚させたことで死刑となったことから、欧米では「愛の日」とされ、若い男女が好きな相手に愛の手紙やプレゼントを贈る風習がありました。また、うるう年の2月29日のことを英語でleap year(跳躍の年) といい、女性から結婚の申し込みが許される日とされていました。この2つの西洋の習慣にヒントを得て、ある日本の菓子メーカーが、女性から好きな男性にチョコレートを贈りましょうと宣伝をしはじめ、1965年頃から定着しはじめました。そのため、女性が男性にチョコレートを贈るという習慣は、日本独特のものです。
「2月14日にあった主なできごと」
940年 平将門死去…武士による独立国家を関東に築こうと「将門の乱」をおこした平将門が亡くなりました。同時期に瀬戸内海でおこした藤原純友の乱とあわせて、承平・天慶の乱といい、武士が勃興するさきがけとなりました。
1779年 クック死去…キャプテン・クックのよび名で知られ、世界の海を縦横に走り回って、さまざまな業績をのこした18世紀の海洋探検家クックが亡くなりました。