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「良心の経済学者」 矢内原忠雄

今日12月25日は、戦前は経済学者、植民政策学者として「戦争反対」をうったえ、戦後は東大総長を6年間つとめた矢内原忠雄(やないはら ただお)が、1961年に亡くなった日です。

1893年、愛媛県今治市に医者の子として生まれた矢内原忠雄は、教育熱心な父の影響で、神戸のいとこの家から旧制神戸中学を卒業。上京して旧制第一高校に在学中、無教会派のクリスチャン内村鑑三に入門すると、キリスト教への信仰を生涯つらぬきました。東京帝国大政治学科に入学後は、吉野作造の民本主義や、人道主義的な立場から植民政策学を講じていた新渡戸稲造の影響を受け、独自の思想を深めていきました。

1917年に東大卒業後、住友総本店に入社し、別子銅山に配属されましたが、1920年、新渡戸稲造の国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として母校の経済学部の助教授となりました。イギリス・ドイツ、フランス、アメリカへの留学を経て1923年に教授に就任、植民政策を講ずることになると、台湾などの実情を調査するうち、いかに民衆がみじめな生活をしているかを実証的に分析し、その改善をもとめました。そんな矢内原の姿勢は、「満州事変」以後急速に軍国主義的な風潮が強まる中で、体制との緊張関係を深めていくこととなります。

1937年、盧溝橋事件の直後、『中央公論』誌に「国家の理想」と題する評論を寄せて日中戦争の開始を批判した内容や、今日では常識化した民主主義の理念が先取りして述べられている講演内容が、軍部や学内の御用学者に反発をまねき、教授辞任を余儀なくされました(矢内原事件)。辞職後は伝道のための雑誌を発行し、自宅に土曜学校を開いてキリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続けたのでした。

敗戦後の1945年11月、東大に復帰した矢内原は、経済学部長、教養学部長を歴任後、1951年に東京大学総長に選出されました。1957年まで2期6年務めるなかで、学問と大学の自由のために積極的に行動するいっぽう、学生のストライキに対しては厳しい姿勢を示し、ストライキを計画指揮した学生は原則として退学処分とする「矢内原三原則」を打ち出しました。この原則は東大紛争で廃止されるまで、学生と大学当局の間でしばしば対立の原因となったことはよく知られています。

キリスト教の信念にもとづき、教育を通してわが国の民主化と平和につくそうと戦いつづけた68年の生涯でした。


「12月25日にあった主なできごと」

800年 カール大帝即位…カール大帝 (シャルルマーニュ)は、この日聖ピエトロ寺院で、ローマ教皇からローマ皇帝として戴冠されました。大帝は、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成、フランク王国は最盛期を迎えました。

1642年 ニュートン誕生…万有引力の法則、数学の微積分法、光の波動説などを発見したイギリスの物理学者・数学者・天文学者のニュートンが生まれました。

1897年 赤痢菌の発見…細菌学者志賀潔は、この日赤痢菌の病原菌を発見したことを「細菌学雑誌」に日本語で発表しました。しかし、当時の学会はこれを承認しなかったため、翌年要約論文をドイツ語で発表、この論文で世界的に認められることになりました。

1926年 大正天皇崩御…1921年には当時20歳だった皇太子・裕仁親王が摂政に就任していましたが、この日大正天皇が亡くなり、裕仁親王が天皇の位を受けついで「昭和」となりました。

1928年 小山内薫死去…明治末から大正・昭和初期に演劇界の発展に努めた劇作家、演出家の小山内薫が亡くなりました。

1977年 チャップリン死去…イギリスに生まれ、アメリカで映画俳優・監督・脚本家・プロデューサーとして活躍したチャップリンが亡くなりました。

投稿日:2012年12月25日(火) 05:47

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)