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『金色夜叉』 の尾崎紅葉

今日10月30日は、明治期最大の流行作家として、幸田露伴とともに「紅露時代」を築いた尾崎紅葉(おざき こうよう)が、1903年に亡くなった日です。

1868年、江戸(現在の浜松町)に男芸者といわれる幇間(ほうかん・たいこもち)を兼ねた彫職人の家に生れた尾崎紅葉は、4歳のときに母と死別し、母方の祖父母のもとで育てられました。府立第一中学(現・日比谷高校)で学びましたが中退、1883年に東大予備門(のちの第一高校)に入学すると文学への関心を深め、1885年には山田美妙らと日本初の文学結社「硯友社」をつくり、機関誌『我楽多文庫』を発刊して、小説や詩や紀行文などを書いて評判になりました。

1888年に東京帝国大学政治科に入学。翌1889年に国文科に転科すると『二人比丘尼 色懺悔』を刊行しました。この作品は、戦国時代を舞台に、二人の女性が戦で死んだ若武者をとむらうストーリーと、会話を口語体にしながら地の文は文語文という雅俗折衷の文体が、当時の新しい文学のあらわれとして評価され、紅葉はいちやく流行作家として広く知られるようになりました。

同年、大学(1890年中退)在学中ながら読売新聞社に入社して、明治の風俗を美しくえがいた『三人妻』、親しみやすい文章でつづった『二人女房』などを次々に読売新聞紙上に連載し、高い人気を得ました。特に『源氏物語』の影響を受け、知識人の愛情の微妙な揺れをえがいた心理小説『多情多恨』(1896年)は、話し言葉と書き言葉をひとつにする(言文一致)の口語体で書かれたことから、幸田露伴とともに明治期の文壇の重鎮とされ、「紅露時代」と呼ばれるようになりました。

そして、1897年に代表作となる『金色夜叉(こんじきやしゃ)』の連載が始まると、貫一とお宮をめぐっての金と恋の物語は日清戦争後の社会という時流にのって、一大人気作品となりました。大衆に後押しされて続編に次ぐ続編と、6年にわたって新聞紙上をかざりつづけましたが、その無理がたたって、最後は紅葉36歳での死で未完に終わりました。「紅葉門下の四天王」といわれる泉鏡花、徳田秋声、小栗風葉、柳川春葉らたくさんの弟子を育てたことでも知られています。

なお、オンライン図書館「青空文庫」では、のちに、芝居や映画でも演じられるようになった『金色夜叉』(前編・中編・後編・続金色夜叉・続続金色夜叉・新続金色夜叉)を読むことができます。


「10月30日にあった主なできごと」

1850年 高野長英死去…『夢物語』を著して江戸幕府批判の罪で捕らえられるものの脱獄、自ら顔を焼き人相を変えて逃亡していた蘭学者高野長英が、幕府の役人に見つかって自殺をはかりました。

1890年 教育勅語発布…この日「教育に関する勅語」(教育勅語)が発布され、翌日全国の学校へ配布。以来、1945年の敗戦まで55年もの間、皇室中心の国家的教育が進められました。

1938年 火星人来襲パニック…アメリカのラジオドラマで、オーソン・ウェルズ主演『宇宙戦争』(原作H・Gウェルズ)を放送、演出として「火星人がニュージャージー州に侵入」の臨時ニュースを流したところ、本物のニュースと勘違いした人々が大パニックをおこして町から逃げ出す人、発狂する人まで現れました。

投稿日:2012年10月30日(火) 05:51

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)