今日10月16日は、飛鳥時代の645年に始まった「大化の改新」に、中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍し、藤原氏繁栄の基礎を築いた藤原鎌足(ふじわらの かまたり)が、669年に亡くなった日です。
聖徳太子が40歳だった614年、大和国(奈良県)で生まれた鎌足のもとの姓は、中臣(なかとみ)です。中臣氏は先祖から、朝廷の神の祭りをつかさどってきた家柄でした。鎌足は、幼いころから学問にはげみ、19歳になると、中国の留学からもどってきた僧の旻(みん)のもとで、海のむこうの国ぐにのすぐれた文化を学び始めました。そして、政治についても新しい知識を深めていくうちに、日本の政治を正しく進めていくためには、そのころ天皇以上に権力をふりまわす蘇我氏を倒さねばならないと考えるようになりました。しかし、朝廷につかえてはいても自分の力だけでは、どうにもなりません。鎌足は、かしこくて勇気のある中大兄皇子に近づくことを考えました。やがて、皇子と言葉をかわせる日がきました。
法興寺(飛鳥寺)という寺で、けまりの会が開かれた日のことです。皇子がまりをけったはずみに、靴がぬげてとんでしまいました。このとき、そのかたわらに鎌足がいました。鎌足は、靴をひろうと、名を名乗りながら、皇子にさしだしました。すると心が通じあい、それからのち二人は、共に学びながら、蘇我氏を討つことを話しあうようになりました──。これは『日本書紀』に書かれている話です。
「朝鮮からの使者がきたときに、蘇我入鹿を宮中で殺そう」という計画ができあがった645年6月、ふだんはでてこないのに、朝鮮からの使者の、みやげものを受けとりにでてきた入鹿を、あっというまに討ちとりました。この事件で蘇我氏はほろび、鎌足は、斉明天皇の皇太子として国の政治を進めるようになった中大兄皇子を助けて、「大化の改新」に力をつくしました。鎌足は皇子よりも12歳上でしたが、二人は身分はちがっても、心のなかは兄弟のように結びついていたようです。
668年に皇子が天智天皇となった翌年、鎌足は天皇から、26段階あるうちの「大職冠」という最高の位と藤原という姓をさずけられて、55歳の生涯を終えました。日本の歴史の中で1000年以上もつづいた藤原氏は、このときに始まったのでした。
「10月16日にあった主なできごと」
1012年 藤原道長絶頂期の歌…藤原氏の全盛をきずいた道長は、「この世をば わが世とぞ思ふ望月の かけたることも なしと思へば」という有名な歌を作りました。長女を一条天皇、次女を三条天皇の皇后とし、そして三女を後一条天皇の皇后にしたこの日の祝宴で、自分の栄華を満月にたとえたものです。
1793年 マリー・アントワネット死去…フランス国王ルイ16世の王妃で、フランス革命の際に国外逃亡に失敗、この日38歳の若さで断頭台に消えました。
1946年 ナチス戦犯の絞首刑…南ドイツの都市ニュールンベルクで行なわれた、第2次世界大戦中にドイツが行なった戦争犯罪を裁く国際軍事裁判(ニュールンベルク裁判)は1日に最終判決がなされ、ヒトラーの片腕だった航空相ゲーリング、外相だったリッベントロップら12名は死刑をいいわたされていましたが、この日11名が13階段を登って絞首台に立ち処刑されました。(ゲーリングは処刑される寸前に拘置所で服毒自殺)