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『道化師』 のレオンカバッロ

今日8月9日は、イタリアのオペラ作曲家、台本作家のレオンカバッロが、1919年に亡くなった日です。

マスカーニの作曲した『カバレリア・ルスティカーナ』と並んで、ベリズモ(現実主義)オペラの代表作として名高いのが、レオンカバッロの『道化師』です。このふたつのオペラは、あわせても普通のオペラの1作分ほどの長さのため、こんにちでは2本立てで上演されるのが普通になっています。そのため、俗に「ベリズモ・オペラの双生児」といわれます。

1857年、ナポリの裁判官の子として生まれたルッジェーロ・レオンカバッロは、ナポリ音楽院とボローニャ大学で学んだ後、楽士としてヨーロッパ各地を放浪しました。ワーグナーを尊敬し、自作の台本によるオペラを上演する機会を得ようと努力しましたが、果たせませんでした。

1890年、5つ年下のマスカーニが懸賞で入選した『カバレリア・ルスティカーナ』の上演をみて大感動を覚えたレオンカバッロは、自分もすばらしい「ベリズモ・オペラ」を残そうと決意。一幕物のオペラ懸賞募集に、自作の二幕物の『道化師』を応募したため、入賞できませんでした。ところが、審査員のひとりだった楽譜出版社の社長が気に入り、等外入賞とされ1892年にミラノで上演されると、迫力ある劇的効果に人気を博し『カバレリア・ルスティカーナ』と優劣つけがたい大成功をおさめたのでした。

物語は、ある田舎回りの道化芝居の一座におこった恋の悲劇を描いたものです。「みなさん、われわれ道化師も人の子です。喜びも悲しみも、恋もあり嫉妬もあります。そんなことを、皆さんに見ていただきたいのです…」というプロローグの歌ではじまり、幕があがります。

主人公のカニオは、一座の座長で道化師を担当しています。妻のネッダは劇の中で座員のトニオと不倫を演じることになっていますが、実はネッダは村の青年シルビオといい仲になっています。トニオもネッダが好きなため彼女に迫るものの相手にされず、腹を立ててネッダとシルビオの密会の場を、カニオに見せてしまいます。不倫を知ったカニオは、ネッダに「相手の名をいえ」と責めますが、ネッダは拒みます。カニオは、怒りも悲しみも隠して道化芝居を演じ、客を笑わせなければならない役者の悲しみを歌い、男泣きします。(第1幕)

美しい間奏曲に続いて、第2幕の劇中劇がはじまります。その内容は、亭主の留守に女房のところに色男が忍びこむという、二人の私生活とそっくりのストーリーだったため、劇がすすむにつれてカニオは、劇中でネッダが「今夜からずっとあたしはあんたのもの」と歌うのを、芝居と現実のみさかいがつかなくなり、本気に「相手の名をいえ」と妻ネッダに迫り「おれはもう道化師ではない」と叫ぶカニオの迫真の演技に、村人は拍手喝采。ネッダは危険をさとって逃げ出そうとしますが、カニオは彼女を刺殺し、ネッダを助けようと舞台に上がってきたシルビオもまたカニオに殺されます。村人たちが大混乱の中、カニオは「喜劇はこれで終わった」(ベートーベンの言葉として有名)と、つぶやいて、その場にくずれ折れ、幕がおります……。こうして、「ベリズモ・オペラの双生児」は、情熱的なイタリア人の魂をとらえて、大ヒットしたのでした。

レオンカバッロは、その翌年に『メディチ家の人々』、1896年に『チャタートン』を発表しますが、どちらも興行的には失敗に終わりました。1897年にプッチーニと同じ素材で『ラ・ボエーム』を発表して成功させましたが、その名声はプッチーニに譲り、その後もいくつかの歌劇や歌曲、ピアノ曲を残すものの、『道化師』の成功には、はるかにおよばないものでした。


「8月9日にあった主なできごと」

1192年 源実朝誕生…鎌倉幕府第3代将軍で、歌人としても著名な源実朝が生まれました。

1945年 長崎へ原爆投下…8月6日の広島に続き、長崎に原爆が投下されました。広島の原爆はウラン爆弾だったのに対し、プルトニウム爆弾という広島より強力なものでした。しかし平地の広島に比べて長崎の地形が複雑なため、被害は浦上地区に集中しました。それでもこの原爆で数か月以内に7万人が亡くなり、その後に亡くなった人を入れると、15万人ほどの人が命を落としました。

投稿日:2012年08月09日(木) 05:39

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)