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「ベルサイユ条約」 とクレマンソー

今日11月24日は、フランスの政治家でジャーナリストのクレマンソーが、1929年に亡くなった日です。

1841年、フランス西北部バンデ県で代々医者を家業とする家に生まれたジョルジュ・クレマンソーは、南北戦争中のアメリカに留学した後、パリで医学を学んで家業を引継ぎましたが、まもなくジャーナリストに転身。1865年から4年間アメリカの通信員として働きながら、政治に関心を持ちだしました。

帰国後、29歳でパリのモンマルトル区長となり、1871年に下院議員に当選して、急進派の議員として活躍をはじめました。共和派のブルジョワ的政策を厳しく攻撃して、ガンベッタ内閣やフェリー内閣を辞任に追いやったことから、反対派から「虎」とか「内閣のつぶし屋」とあだ名されるほどでした。

1893年の総選挙で落選してからはしばらく政界を離れ、ジャーナリストに専念。1897年に日刊紙「オーロール」の主幹となると、無実の罪を負わされた軍人ドレフィス(ドレフュス事件)を熱心に擁護する論陣を展開し、同志の作家エミール・ゾラによる大統領あての公開告発文「われ弾劾す」を掲載したことは有名です。

1902年、再び政界に返り咲くや左翼から保守派に転向し、ドイツに対し軍備を強める方針をとると、1906年から1909年には首相となって、軍備拡張、帝国主義政策を推進しました。いっぽう多発していた労働争議に軍隊を投入して厳しく弾圧しました。また、イギリス、ロシアと三国協商を結び、ドイツと対抗したことは、第1次世界大戦勃発の要因となりました。

大戦が長引いた1917年、フランス国内に敗戦の空気が流れるようになると、ポアンカレ大統領に請われて、再度首相に就任。陸軍大臣を兼ねて、断固とした戦争政策を強行します。勝利に導いたことで「勝利おやじ」とよばれ、1919年に連合国と対ドイツとの講和会議「パリ講和会議」を開催します。講和条約を作る中心人物となったクレマンソーは、ドイツに対し1320億マルク(当時のドイツ国民総生産の2.5倍)という莫大な賠償金の支払いを含む「ベルサイユ条約」を調印させることに成功しました。(しかし、これがヒトラーを中心とするナチスが政権を握る一因となり、1935年にナチス・ドイツは、一方的にベルサイユ条約を破棄しています)

1920年、クレマンソーは大統領選挙に立候補しましたが、敗北して政界を引退。パリと故郷を往復しながら執筆に専念し、88歳で亡くなりました。


「11月24日にあった主なできごと」

1940年 西園寺公望死去…自由主義思想を支持し、2度総理大臣になるなど、明治・大正・昭和の3代にわたり活躍した最後の元老政治家といわれる 西園寺公望 が亡くなりました。

1944年 東京初空襲…アメリカ軍の爆撃飛行機B29が、東京へ初めて爆撃を敢行しました。航空機を製造する中島飛行機武蔵野工場が主な攻撃目標でしたが、やがて無差別爆撃へ戦術を変え、翌年3月10日には東京の下町を火の海にする大空襲を行いました。

投稿日:2011年11月24日(木) 07:11

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)