今日8月24日は、江戸時代後期の国学者・平田篤胤(ひらた あつたね)が、1776年に生まれた日です。篤胤は、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長とともに国学四大人(うし)の一人とされています。
出羽国(現・秋田県)藩士の4男として生れた篤胤は、少年時代、おしつけられる勉強がきらいだったため、父親に落ちこぼれとみなされて、出仕することもかなわず雑用をさせられていました。しかし、興味のある本は片っ端から読み、自分が信じることは、はっきり主張して譲ることがなかったといわれています。
1795年篤胤は藩をぬけだし、無一文同然で江戸に出ました。生活のために車引、消防人夫、風呂屋の下働きなどをして働きました。1800年、ある商家で飯炊きをしていたとき、仕事の合間に大きな声を出して本を読んでいると、その声が商家のあたりを警備していた備中松山藩(現・岡山県高梁市)藩主の耳に入り、山鹿流兵学者の平田篤穏(あつやす)に声の主を探させ、これが縁となって篤穏の養子となりました。
1801年26歳の時、亡くなったばかりの 本居宣長 の著書を読んで感銘を受け、国学で身を立てようと決意。1803年には、夢に宣長が現れて、そこで師弟関係を結んだとして「宣長没後門人」と称しました。その集中ぶりは凡人には想像できないほどで、何日間も不眠不休で書きつづけ、疲れが限界になると机にむかったまま寝て、目がさめるとまた書きつづけるというものでした。また、宣長研究の中でも、とくに『古事記』『日本書紀』を中心とした研究に没頭したばかりでなく、仏教・儒教・道教・蘭学・キリスト教など、さまざまな宗教教義なども研究して分析、さらに、西洋医学、ラテン語、暦学・易学・軍学などにも精通するほどのものでした。
そんな研究と分析の末に、篤胤は、日本の復古神道こそ、もっとも素晴らしいものと結論づけました。宣長の考えを引継ぎ、さらに強化して古代日本民俗への復帰を主張するようになったのです。この朝廷を中心とする考えは、幕府の勧める儒教や仏教など外来思想を排撃することにつながり、幕府から危険人物とみなされるようになりました。
しかし篤胤は、これにひるむことなく、一般大衆を味方につけようと、その考えを講談風に口述して弟子たちに筆記させて出版。町人や豪農たちにも広く受け入れられました。特に、関東、中部、東北の有力者たちに信奉され、やがて幕末から明治維新につながる尊皇攘夷運動の原動力となっていったのです。
しかし、晩年の篤胤は、易学に関心が深まり、1841年に『天朝無窮暦』という幕府の暦制批判の本が幕府の目にとまり、故郷である秋田に帰るように命じられ、以後の著述を禁止されてしまいました。秋田に帰った篤胤は2年後の1843年、68歳でその激しい人生を終えました。
「8月24日にあった主なできごと」
79年 ポンペイ最後の日…イタリアのナポリ近郊にあった都市ポンペイが、ベスビオ火山の噴火による火山灰で地中に埋もれました。
1594年 石川五右衛門刑死…豊臣秀吉が愛用する「千鳥の香炉」を盗もうとして、捕えられた盗賊の石川五右衛門とその親族は、京都の三条河原で、当時の極刑である[釜ゆでの刑]に処せられました。これ以降、釜型の風呂のことを「五右衛門風呂」と呼ぶようになりました。
1897年 陸奥宗光死去…イギリスとの治外法権を撤廃、日清戦争後の下関条約締結の全権大使をつとめるなど、近代日本の外交を支えた 陸奥宗光 が亡くなりました。