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『紅白梅図屏風』 の尾形光琳

今日4月6日は、江戸時代の中期、町人文化が栄えた元禄期を代表する画家 尾形光琳(こうりん)が、1716年に亡くなった日です。

光琳は、1658年京都の高級呉服屋として知られる雁金屋の次男に生まれました。当時、家はたいへんな金持ちでしたから、光琳はなに不自由なく育てられました。父は趣味のゆたかな人で、光琳はその感化をうけて、はやくから能を舞い、絵を学びました。しかし、最初から画家になる気はなく、本格的に絵の勉強をはじめたのは、20歳をすぎてからでした。

まず、狩野探幽の弟子の山本素軒に習いましたが、狩野派のかたくるしい画法に満足できず、のびのびした線や色をつかう土佐派の絵にひかれていきました。そのうちに、江戸初期の大画家 俵屋宗達 の絵を見て深く感動し、その絵を手本に勉強するようになりました。そして、しだいに工夫を加え、装飾的な明るくはなやかな独特の画風を生みだしていきました。

ところが、1697年ごろ、雁金屋の勢いがなくなってきました。大名たちに貸した金がとれなかったり、日ごろのぜいたくが過ぎたからです。光琳はやむなく、絵を売って生活することにしました。やがて、画家としての名声も高まり、1701年には当時画家として最高の名誉である、法橋の位を受けました。また、豪商中村内蔵助の援助を受けてますます活躍しましたが、はでな性格はすこしもなおらず、生活は苦しくなるばかりです。そのうち画家としてのゆきづまりを感じるようになっていきました。

1704年、光琳は江戸(東京)へ出ました。江戸には活気が満ちあふれていると聞いていたからです。しかし、期待はうらぎられました。江戸の文化はあらあらしく、光琳の肌にあいません。おまけに大名づかえの生活にはかなりの束ばくがありました。

「私の生命は、あと10年がせいぜいだ。1日も早く京都へ帰って、気のむくまま、自由に絵筆を遊ばせたい」

1709年、51歳の光琳は、逃げるように江戸を出て、京都へもどりました。そして、数かずの名作を残し58歳で他界しました。

Red_Prunus_Korin.jpg

光琳は、生涯に実におおくの絵をかきました。そのなかで最高の名作といわれるのは、草花をあつかった屏風絵です。とくに『紅白梅図屏風』や『燕子花図屏風』は、傑作中の傑作といわれています。蒔絵にも名品をのこし『八橋蒔絵硯箱』が有名です。光琳の画風は、酒井抱一に受けつがれ「光琳派」と呼んで、日本画の大きな流れのひとつに数えられています。家系によって受けついできた狩野派や土佐派に対し、自主的に画風を受けついできた流派です。光琳の弟乾山もすぐれた陶芸家で、元禄時代の芸術家兄弟としても知られています。


「4月6日にあった主なできごと」
 
1483年 ラファエロ誕生…ルネサンス期を代表する絵画、建築はじめ総合芸術の天才といわれるラファエロ が誕生しました。1520年に亡くなった日でもあります。

1896年 第1回オリンピック開催…古代ギリシアで4年に1度開催されたスポーツ競技を復活させようと、フランスの クーベルタン による提唱で国際オリンピック委員会(IOC)が1894年につくられ、この日ギリシアのアテネで近代オリンピック第1回大会が開かれました。参加国14か国、競技種目43種目、選手数240人と、小規模なものでした。

1919年 非暴力・非服従運動…インド独立運動の指導者 ガンジー は、支配国イギリスに対する非暴力・非服従運動を開始しました。この日、反英運動への取り締まる法律が施行されたのに、断食をして抗議したのをはじめ、イギリス製品の綿製品をボイコットして、伝統的な手法によるインドの綿製品を着用することを自ら糸車をまわして呼びかけるなど、不買運動を行いました。

投稿日:2010年04月06日(火) 09:34

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プロフィール

酒井 義夫(さかい よしお)
酒井 義夫(さかい よしお)

略歴
1942年 東京・足立区生まれ
1961年 東京都立白鴎高校卒
1966年 上智大学文学部新聞学科卒
1966年 社会思想社入社
1973年 独立、編集プロダクション設立
1974年 いずみ書房創業、取締役編集長
1988年 いずみ書房代表取締役社長
2013年 いずみ書房取締役会長
現在に至る

昭和41年、大学を卒業してから50年近くの年月が経った。卒業後すぐに 「社会思想社」という出版社へ入り、昭和48年に独立、翌49年に「いずみ書房」を興して40年目に入ったから、出版界に足を踏み入れて早くも半世紀になったことになる。何を好んで、こんなにも長くこの業界にい続けるのかと考えてみると、それだけ出版界が自分にとって魅力のある業界であることと、なにか魔力が出版界に存在するような気がしてならない。
それから、自分でいうのもなんだが、何もないところから独立、スタートして、生き馬の目をぬくといわれるほどの厳しい世界にあって、40年以上も生きつづけることができたこと、ここが一番スゴイことだと思う。
とにかくその30余年間には、山あり谷あり、やめようかと思ったことも2度や3度ではない。なんとかくぐりぬけてきただけでなく、ユニークな出版社群の一角を担っていると自負している。
このあたりのことを、折にふれて書きつづるのも意味のあることかもしれない。ブログというのは、少しずつ、気が向いた時に、好きなだけ書けばいいので、これは自分に合っているかなとも思う。できるかぎり、続けたいと考えている。「継続は力なり」という格言があるが、これはホントだと思う。すこしばかりヘタでも、続けていると注目されることもあるし、その蓄積は迫力さえ生み出す。(2013.8記)