今日6月29日は、明治時代の洋楽揺籃(ようらん)期に、『荒城の月』『花』などの歌曲や、『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡を作曲した滝廉太郎(たき れんたろう)が、1903年に亡くなった日です。
「あっ、オルガンがある!」
だれもいない音楽室をのぞいた廉太郎は、思わずさけびました。明治時代の中ごろでは、オルガンはめずらしい楽器だったからです。
廉太郎は、すいつけられるように音楽室へ入って、そっと、オルガンに手をのばしました。するとそのとき、先生が現われました。廉太郎は、いそいで手をひっこめました。きっと、しかられると思ったからです。ところが、先生は、自分で曲をひいてみせると、廉太郎に「さあ、やってみろ」と、いってくれました。先生のやさしいことばに、廉太郎は、オルガンにとびつきました。そして、5、6回くり返すうちには、さっきの先生の曲を、じょうずに、ひけるようになってしまいました。
おどろいたのは先生です。やがて、先生の教えをうけた廉太郎は、学校の式では先生のかわりに『ほたるの光』などを、ひくようになりました。
これは、役人の子として1879年に、東京で生まれた滝廉太郎が10歳のころ、父の転勤にともなって大分県へひっこし、竹田高等小学校へ編入学したときの話です。家に、バイオリンやアコーデオンがあり、自分でもハーモニカや尺八が吹けた廉太郎は、幼いころから、音楽にしたしんで育ちました。
15歳の年、廉太郎は、わが子を音楽の道へ進ませることには反対だった父を説きふせて、東京の、高等師範付属音楽学校へ入学しました。むずかしい試験を突破した合格者のなかで、いちばん年下でした。しかも、このとき入学した30数人のうち4年ごにいっしょに卒業できたのは、わずか7人でしたから、廉太郎の才能がどんなにすぐれていたかがわかります。
廉太郎は、卒業ご、さらに音楽学校の研究科へ進み、自分は作曲を学びながら、学生たちにピアノを教え始めました。文部省が募集した中学唱歌に、廉太郎が応募した『荒城の月』『箱根八里』『豊太閤』の3曲全部が入選したのも、このころです。
「日本の曲と、日本の詩が美しくとけあった歌を……」
廉太郎は、そのころ外国の曲に日本の詩をつけた歌が流行し始めていたなかで、西洋音楽のすぐれたところはとり入れながら、日本人の心に訴えかける日本の歌を求めたのです。
ところが、22歳でドイツへ留学した廉太郎は、その異国の地で結核にたおれ、つぎの年に帰国すると、あっけなく、短い生涯を終えてしまいました。歌曲、ピアノ曲のほか『鳩ぽっぽ』『お正月』などの童謡も残して、人びとに惜しまれながら……。
以上は、いずみ書房「せかい伝記図書館」(オンラインブックで公開中)35巻「与謝野晶子・石川啄木」の後半に収録されている14編の「小伝」の一つ 「滝廉太郎」をもとにつづりました。
なお、音楽配信「ユーチューブ」では、『荒城の月』『花』など、たくさんの滝廉太郎作品を視聴することができます。
「6月29日にあった主なできごと」
1932年 特高の設置…特別高等警察(特高)は、日本の主要府県警の中に設置された政治警察で、この日に設置されました。警察国家の中枢として、共産主義者はもとより、自由主義者や宗教人らにも弾圧の手をのばし、国民の目や耳や口を封じ、たくさんの人々を自殺においこみ、虐殺させた思想弾圧機構ともいえるものでした。